満州国の真実:チャイナプロパガンダと対峙する

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満洲国に対する誤解

日教組教育の弊害の一つに満州国に対しての誤解がある。

我々の歴史教育では、日本が突然中国大陸に牙をむいて侵略していき、人殺しをして占領して植民地にしたというような、正に欧米が全てのアジア地域で行っていたことを投影したかのような歴史を叩きこまれる。

アメリカのカリフォルニア地域で活動しているC共産党の工作員活動家のインタビューを見たことがあるがその人も全く同じ論調だった。

その男性は

「あの時、なぜ日本がチャイナにいたんですか?」

日本人がチャイナにいたんだから日本人が侵略していたんでしょうが!

とまくし立て、最後には日本が悪かったという結論に持って行った。

日本人はこんなむちゃくちゃな言い分にも歴史事実を持って反論できるようにならなければならないと強く思った時だった。

渡部昇一先生曰く、その当時の日本人の99%が、満州が独立したというニュースを聞いた時に本当に喜んだという。

なぜ日本が喜んだのかを考えてみたらいいと思う。

一昔前にべストセラーになった「紫禁城の黄昏」は渡部昇一先生の教え子が訳された本だと最近知った。我々は今一度、このような本を読み返す必要があると思う。

満洲の歴史

今は中国東北部と言われていその地域は数百年前にはヌルハチという強いリーダーが出て統一した。そのヌルハチの子供が更に統一してその地域を清国と呼んだのが「清」の始まりだ。

その子供もまた偉大で、更に北京を占領して後に、大陸全土を統一し、その統一王朝を清国と呼んだ。

日本が戦った日清戦争の「清」はその清王朝だった。

しかし、日露戦争の後5.6年経ってから満州人に対して、漢民族の革命が起こった。

「満州人なのだから満州人は帰れ」という革命だった。

結局、満州人は紫禁城から追われて、共産党勢力から殺されかかった。

清朝の皇帝は日本の公使館(今でいう大使館)に命からがら逃げ込み、「自分の郷里の満州に行って国を建てたい」と願い出てのを日本が助けたというのが満州事変だった。

日本の歴史教育で教わるのとはまるで違う史実だ。

なぜここまで違うのか。。

答えは簡単で日本の教科書は今のチャイナ共産党の意向に合うものに作られているからだ。

つまり「日本悪」という自虐史観で書かれているからだ。

さて、日露戦争前はロシアが100%満州を占領してロシアの領にしていたことも覚えておかなければならない。しかし清朝は取られた領土を取り戻そうという努力はしなかった。

それを日露戦争により、ロシアを追っ払い、満州を取り返した。その代償といして鉄道の権利を貰った。それがあの満鉄(満州鉄道)だ。

日本がロシアから取り返した満州地域は清朝の最後の皇帝であった溥儀を立てて満州国という独立国を立てた。皇帝、大臣、すべて満州および清朝の人々だったが、その人達は力がないので、下は日本が支えていたのが満州国の実態だ。

わずか10年であったが、満州国には映画あり、オーケストラあり、とても華やかな文化が花開いた。

また「アジア号」という新幹線並みの大型鉄道も満州にしかなかった産物だ。

もう一つ頭に入れておかなければならない大事な歴史背景は、その当時はアジア全地域が欧米の植民地だったことだ。

我々が今、世界地図を見て存在するあれらの国は全てなかった。

信じがたいが本当になかったのだ。

そんな弱肉強食の植民地帝国主義の中で必死に独立を保っていたのが世界で唯一日本だった。(タイは独立を死守したというよりは列強の緩衝国として独立していたという意味で日本の独立とは違う)

そんなアジアが西欧からの搾取の時代の中で、アジアでは唯一、日本そして日本の統治にあった台湾、朝鮮半島が群を抜いて栄えていた。そんな国々の次に栄えたのが満州だった。

わずか10年だが、正にコスモポリタンの国だったその満州の旗は五色旗だった。その5色が表すのは満州族、蒙古族、漢族、朝鮮族、そして大和民族の5族を表していた。

満州国は初めて日本が管理する海外領ということで列強から笑われない素晴らしい国にしようとインフラにも全てをつぎ込み、治安も各段に良くなり、清潔になり、近代的な建物が立ち並ぶ今でいう東洋のコスモポリタンのような夢の国が出来上がった。

そこに住みたいと怒涛の如く大量になだれ込んだのも漢民族だった。

「これの何がどう侵略なのか」と日本人もしっかりと反論できるようにならないといけない。

 

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