追憶の日:日系人強制収容所の歴史

アメリカ全般
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2月19日はアメリカではどんな日かご存知だろうか。

2月19日はDay of Remembrance (追憶の日)と言われている。

何を思い出すのか?

1942年2月19日にフランクリン・ルーズベルトが大統領令9066号を出したことだ。

この大統領令が出された事で、西海岸に集中して居住していた、その殆どがアメリカ国民であった日本人は突然、自分で持てるだけの(スーツケース一つ)のみの持ち込みを許され、家から追い出され、財産も資産もビジネスも全て没収され、、鉄道に押し込められ砂漠の強制収容所に入れられることになった。

これだけを聞くとまるでナチスがユダヤ人にやったことの様に聞こえるだろう。

正にそうだ。

当時、民主党の大統領だったフランクリン・ルーズベルトはアメリカ人が意味嫌うヒットラーがユダヤ人に行ったことと同じことを日系アメリカ人に行っていた。

このことは日本人でも知らない人が多い。

そしてこの強制収容所での悲惨な環境も知らない人も多い。

この強制収容所に入れられた日本人は、収容所に連れて行かれる列車に乗り込む順を待っている子供も含めた家族の写真を見てもわかる様にとても身なりがよい。

彼らが住んでいた居住区は治安も良く、とにかく勤勉に働き、もともと調和的に暮らす日本人気質もあり、街の他のアメリカ人とも何のいざこざも起こさず優秀なアメリカ国民として毎日の生活を営んでいる人ばかりだった。

それが日本とアメリカが戦闘状態になったことを受けて、突然、日本人の血が流れているというただそれだけの理由で、スパイかもしれないと疑惑を理由に、裁判も何もする権利すら守られず、全てを没収された。

わたしも記事にしたことがあるアメリカ史上最多の勲章を受け、今でもその記録が破られていない42連隊の隊員の中にも、アメリカへの忠誠心を示し、家族の安全を確保するためにも、この収容所から志願して連隊に加わったものの多かった。

この収容所の問題になると必ず英雄として名前が上がるのがフレッド・コレマツ氏だ。

彼も同じ様に強制収容所に入れられ、数々の有罪判決を受けたことで、戦後も前科ありの犯罪者扱いであったので、とても優秀な方であるにも関わらず、大企業や公的な職に就くことができなかった人物だ。拘置所よりも汚く酷い生活環境だと言われる収容所では、過酷な労働を強いられた一人だが、戦後に名誉回復をするための活動をされていた。

その彼の執念とも言える活動は約40年の時を経て身を結んだ。

1980年にジミー・カーター大統領は、戦時における民間人の転住・抑留に関する委員会(CWRIC)を設置し、第二次世界大戦中の日系人の強制収容に関する調査を行うよう命じた。

その結果、委員会は日系人への強制収容を

「人種差別や戦時下のヒステリー、及び政治指導者の失敗」

により起こったものだと結論づけた。

そして、1988年には、合衆国議会において戦時中の強制収容に対する謝罪と補償が制定され、存命中の者に一人当たり20,000ドルの賠償金を支払うことが決定した。

コレマツ氏は、最高裁での有罪が確定してから約37年経った1982年に法史研究学者のピーター・アイロンズから

「戦時中の資料の中から、日本人がスパイ活動をしていたという事実は無根であり、国が捏造したものであることを発見した」

という内容の手紙を受けとったことで、再び政府と対決することを決意したという。

日系人弁護士のデール・ミナミを招き、1年以上かけて裁判の為の証拠を収集した。

その途中で、アメリカ政府はコレマツ氏に対して特赦を申し出たが、その時も

『私は国からの許しはいらない。許すとするならば、私が国を許すのです』

と力強く述べ、あくまでも再審にこだわった。

そして、1983年11月10日に41年前に初めて裁判を戦い負けた、北カリフォルニア州の連邦地裁でコレマツ氏の公判が再び行われ、マリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツ氏が受けた有罪判決を無効との決定を下し、コレマツの犯罪歴は消されることとなったのだ。

法廷でコレマツは、パテル判事の前で述べた。

『私は政府にかつての間違いを認めてほしいのです。そして、人種・宗教・肌の色に関係なく、同じアメリカ人があのような扱いを二度と受けないようにしていただきたいのです』

その後、クリントン政権時にの1998年に、コレマツ氏はアメリカにおける文民向けの最高位の勲章である大統領自由勲章を受章した。

ホワイトハウスにおいて執り行われた勲章を授与するための式典において、クリントン大統領はこう言った。

『我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています。プレッシー、ブラウン、パークス等々。その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです』

晩年は、9.11以降アメリカで深刻化するアラブ系アメリカ人への差別や、グアンタナモ刑務所の不当性を訴え、ブッシュ政権との戦いに備えていたが、2005年3月30日にサンフランシスコ北部で86歳で亡くなった。

2010年9月23日にカリフォルニア州政府は、コレマツの誕生日である1月30日を「フレッド・コレマツの日」と制定し、州民に憲法で保証された市民の自由の重要性を再認識する機会とした。

こういう経緯があって、2月19日はトレンドに入る程、この#Day of Remembranceは数々のメディアで語られる話題になった。

この強制収容所の大統領令は本当に酷いものであったし、許されることではない。

しかしこの件が昨今のグローバル化の波に利用されている気がして残念な気持ちがする。

そしてこれを話題にする人たちは反トラさんの主流メディアだけでなく、漏れなく反トラで売電支持者というのも気になる。

これは支持政党関係なく人類にとって普遍的な問題であるべきだ。

この問題が追憶の日として思い出される必要があるのは、アメリカ国民であるのにも関わらず、日本人であるという理由で、スパイ容疑をかけられ、裁判や公聴会などは一切開かれないまま、有無を言わせず強制的に家から出され、資産全てを没収され、収容所で働かされたという点だ。

これは何があっても許されることではない。

しかし普段は日本人のことなど関心の話題もならないSNS上で、トレンドにまで押し上げられるのには必ず裏の意図がある。

例えば、2017年1月30日には「フレッド・コレマツの日」に、Googleがアメリカ合衆国版フロント画面にコレマツのイラストを掲載し

「間違いだと思うならば、声を上げることを恐れてはならない」

というコレマツの言葉を紹介した。

これは、直前にトランプ大統領が署名した大統領令により、シリア難民の受け入れ停止やイスラム圏7か国からアメリカ合衆国への入国禁止が命じられたことへの批判ではないかと当時は話題になった。

この言葉は今年1月30日にナンシー・ペロシが自身のツイッターで上げていた。(ペロシか、、、、複雑な気分)

そして今日の日を殊更、取り上げている人たちをつぶさに見ていけば、難民の受け入れ賛成を主張していたり、人類皆兄弟的な政治思想に傾倒している。(特に友愛の象徴のように持ち上げられている売電支持者)

この日を忘れないという主張には同意するし、わたしもアメリカに住む日本人として、

【先人達はこのような辛い苦労の歴史を経験されており、今の私たちの生活もコレマツ氏の様に戦ってくださった方のおかげでもある】

と思えば感謝の念も出てくる。

しかし、この日本人にとっても、白人系でないアメリカ人にとっても、とても大切な日が、グローバリスト側のトランプバッシングに利用されたり、

違法難民でも犯罪者でも何でも誰でも、精査なく受け入れようではないか。それがアメリカ精神だ

というようあちら側の政治的意図に利用されているのが残念だなと思った次第だ。

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