もくじ
特攻で散った若者達の意思
神風特攻隊というと、大ヒット作の『永遠のゼロ』で初めてその存在を知ったという若い世代もいるのかもしれない。
(この映画のことを思う度に大好きだった三浦春馬さんのことを考えしまう、、泣)
また神風特攻という名前は知っていても、彼らが家族に残した遺書を読んだことがなくて、
彼らがどの様な思いで飛び立っていったのか
をよくイメージできない人もいるだろう。
私も彼らの遺書を読んだのはアメリカに来てからだった。読んだときの衝撃はとても大きかった。
ネットではこの特攻を犬死だったっと嘲笑したり、罵倒する意見に出会うことがしばしばあり、不快極まりない気分になる。
私はこの方に以下の様にリプライしておいた。
貴殿が亡き後「池田さんは犬死。生物学に何の役にも立たずに無駄死された」と言われても、貴方の御霊やご家族の方にとっても侮蔑の言葉ではないのですね。特攻の方々はお一人お一人、魂を持って力強く生きられた若者ですよ。その方々の生き方を何という言葉で。恥さらしです。
大空を飛ぶことを許された優秀な若者たちが、その翼を旋回させて、敵艦隊へ突っ込むという作戦。
この者たちの思いについては以前の記事⬇️で書いた。
さて、特攻隊員が命令されて行ったというからには命令した者がいる。その作戦を最初に立案した者がいるはずだ。
その者は立案者ということで、反日勢力からは殺人鬼の様な言われようをされることがある。
今回はこの『特攻の父』と呼ばれたある人物に焦点を当てて、命令をしていた者は本当に血の通わない冷酷な殺人鬼だったのかを検証していきたい。
特攻の父と呼ばれる男:血の通わない冷酷な人間だったのか
最初の特攻を命じたことによって、「特攻の産み親」と呼ばれることになった人物。
大西瀧治郎中将
大西中将は、昭和天皇が玉音放送を通じて日本国民に戦争終結をお告げになられたのを見届け、翌16日未明に渋谷南平台の官舎で割腹して散り果てた。
特攻作戦を採用した責任者といえる将官や前線で特攻を命じた指揮官たちの中で、
「おまえたちだけを死なせはしない。私も後から行く。」
と言いながらも、このような責任のとり方をした者は他に一人もいない。
壮絶な最後の日
大西がなぜ特攻という作戦を立案するに至ったのかという話の前に、
彼がどの様に責任を取ったのか
ということを知っておきたい。
大西は割腹自殺をしている。
彼は天皇陛下の玉音放送を待った。天皇陛下が日本の終戦を日本国民に知らせた翌日に行っていることから、覚悟はその前々からしていたことが分かる。
その自殺がまた壮絶であった。(映画にもなっているが私には余りに凄すぎて凝視できないくらいだった。)
1945年8月16日、渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し、介錯無しで割腹自決を試みた。
午前2時から3時頃に、腹を十字に切り頸と胸を刺したが死ねなかった。(再度言うが介錯なしだ)
官舎の使用人が大西の血まみれの姿を発見し、多田武雄次官が軍医を連れてきた。前田副官、児玉誉士夫も知らせを聞き、急ぎ向かった。
大西は駆けつけた軍医に
「生きるようにはしてくれるな」
と言い、
児玉には
「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」
と話した。
児玉も自決しようとすると大西は
「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ。」
といさめて止めた。
血が流れ続ける苦しい状態で、介錯と延命処置を拒み続けたまま同日の夕刻に死去した。享年55歳だった。
この大西の自決の話を初めて聞いた時、とにかく衝撃的だったのを覚えている。
その頃は特攻作戦という非情とも言える作戦を計画し、部下を次々に死なせた「特攻の産みの親」などどんな冷酷な心の持ち主なんだろうか。きっと終戦後も何食わぬ顔で(大本営の人たちの様に)生き続けていたのだろう。などど漠然とした印象を持っていたからだ。
そういう人もいたのかもしれない。
しかし、その裏でこの様に軍人としての戒めを自らに課し、部下の苦しみを一番に理解し、自分も特攻隊の一人としての自覚と共に壮絶な自決をやり切った大西の存在は、何も知らなかった私の脳裏に焼き付き、今でも離れない存在となっている。
鶴田浩二が大西瀧治郎中将を演じた3時間超えの大作『あゝ決戦航空隊』。菅原文太の熱演も素晴らしい。ラストの切腹シーンは圧巻。何度も突いてはのたうつ。私は凝視できなかった。これがフィクションでないと知っているからこそ余計に感情移入してしまう。。
東京に帰還後の大西
自決に至る少し前の話をしよう。
1945年の4月に東京に帰還後も、大西は妻の淑恵とは暮さず、最後に自決した官舎での生活を続けた。
「週に一度は奥様の手料理を食べてはどうですか」
との尋ねにも、
大西は目に涙をうかべながら
そんなこと、言ってくれるな、君、家庭料理どころか、特攻隊員は家庭生活も知らないで死んでいったんだよ。
と言って頑として拒んでいる。
彼の心中は常に自分が死なせることになった部下と共にあったことがとてもよくわかる。
この様な人物だったからこそ、部下からの信頼はとても厚かったそうだ。
その様な上官の下で命令を全うできたパイロット達の運命は現代をぬくぬくと生きることしか知らない私たちが「かわいそうに」と現代の命の価値観で語っていいのだろうかと常日頃、考えるきっかけになっている。
妻との同居も拒む
妻の淑恵も大西の身辺の整理をする様子に案じて
「私も一緒に官舎に住みましょうか?」
と尋ねたことがあったが、大西はその妻の言葉にも
「軍人でない家のひとも、焼け出されて、親子ちりぢりになって暮らしているじゃないか。まして、この俺に妻とともに住むようなことができるか」
と断っている。無事に日本に帰還しても妻と暮らすことは死ぬ日まで一度もなかったという。
このあとも妻淑恵は、軍令部次長官舎で暮らす大西と同居することはなく、防空壕生活から大西が懇意であった児玉の家に世話になっていた。
また台湾から初めて東京に帰ってきた時に、自宅が空襲で焼失し防空壕に避難していた妻淑恵を訪ねた際のエピソードも良い。
大西は持っていた氷砂糖を集まった近所の人たちに配りながら
「私は軍人として支那大陸ほか外地を攻撃し、爆弾をおとして、建物を焼いてきました。ですから、敵の空襲をうけて、ごらんのとおり、(自分の)家を焼かれるのは当然であります。しかし、みなさんはなにもしないのに、永年住み馴れた家を焼かれておしまいになった。これは、私ども軍人の責任であります。本当に申しわけありません」
と深々と頭を下げている。
彼の人格が深く表れているエピソードだと思った。
大西は明確に「軍人」と「民衆」を分けて考えていたことが分かる。
日本の帝国軍人は皆、この様な規律で戦っていたのだ。
反日のプロパガンダでよく引き合いに出される、
民間の女子も子供も楽しんで殺して行った
というあちら側の話がどれ程、捏造と虚飾にまみれたものであるか分かるだろう。
大西は本土抗戦を望んでいた一人だが、この「軍人」という意識の強さ上に、日本降伏の流れが色濃くなった時に、
「若い特攻隊員が死んでいったというに、、われわれは、まだ、力を出し切っていない」
という考えに至り、「本土徹底抗戦論」の原点になったのではという指摘もされている。彼の心は常に命令を下した部下達と共にあったことがわかる。
特攻の思想
しかし、現代を生きる我々からしたら、なぜその様な作戦が立てられて、遂行されるに至ったのかというのは理解し難い。
敵と対峙して生きるか死ぬかの戦いには挑む覚悟ができている軍人でも十死零生の作戦に戸惑った若者は多かった。
大西がどの様な思いと信念でこの作戦を考えに至り、それによって何を成そうとしていたかは後世を生きる我々も知っておいた方が良い。
大西は軍需局の要職にいたために日本の戦力をよく知っていた。その上で神風特攻隊を創設する理由を次のように説明していた。
ABCD包囲網で資源が完全に止められている日本は重油、ガソリンは半年も持たず全ての機能が停止するから、もう戦争を終わらせるべきである。講和を結ばなければならないが、戦況も悪く、資材もない現状一刻も早く打開しなければならないため一撃レイテで反撃する。7:3の条件で講和を結び満州事変のころまで日本を巻き戻す。そしてフィリピンを最後の戦場とする。
また、当時の機材や搭乗員の技量で普通の攻撃をやっても敵の餌食になるだけなので、体当たり攻撃をして大きな戦果を確信して死ぬことができる特攻は大慈悲であるとも考えていた。
そして若者こそが日本を救う要であると考えており、
日本を救い得るのは30歳以下の若者である。彼らの体当たりの精神と実行が日本を救う。現実の作戦指導も政治もこれを基礎にするべきである。日本精神の最後の発露は特攻であり特攻によって祖国の難を救い得る。
と確信していたという。
戸川幸夫(東京日日新聞記者、のちに作家)から
「特攻によって日本はアメリカに勝てるのですか?」
と質問された大西は
勝てないまでも負けないということだ。いくら物量のあるアメリカでも日本国民を根絶してしまうことはできない。勝敗は最後にある。九十九回敗れても、最後に一勝すればそれが勝ちだ。攻めあぐめばアメリカもここらで日本と和平しようと考えてくる。戦争はドロンゲームとなる。これに持ちこめば日本の勝ち、勝利とはいえないまでも負けにはならない。国民全部が特攻精神を発揮すれば、たとえ負けたとしても、日本は亡びない。そういうことだよ。
と答えている。
また、大阪毎日新聞記者の後藤基治からこの様に質問された。
なぜ特攻を続けるのか
それに対して大西は
会津藩が敗れたとき、白虎隊が出たではないか。ひとつの藩の最期でもそうだ。いまや日本が滅びるかどうかの瀬戸際にきている。この戦争は勝てぬかもしれない。ここで青年が起たなければ、日本は滅びますよ。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのですよ」
と答えた。
我々は大西を殺人鬼の様に語る左翼反日の人たちの話だけでなく、彼の周りにいた人たちや彼に同意するひとたちの話も同じだけ聞く必要があると思う。
吉岡忠一は「大西は勝っても自刃しただろう。」という言葉を残している。私もそう思う。
源田実は「大西の立場に立たされば、山本五十六も山口多聞も同じことをやったろうし、彼ら自身が特攻機に乗って出撃しただろう。それが海軍軍人である」と話している。
門司親徳は「若ければ大西も隊長として真っ先に特攻へ行っただろう。大西は彼らだけ死なせるつもりがないと感じられ別世界だった。」と語っていた。
大西と笹井醇一
さて、特攻といえば優秀な零戦パイロットの姿を思い起こす。
あの大東亜戦争のエース・パイロットで有名な笹井醇一(海軍少佐)は何と彼の甥っこだった。(大西の妻・淑恵の姉の久栄の息子が笹井)
この笹井さんと言えば、知る人ぞ知る零戦乗りの存在だが、
「え?誰」
という人の方が多いのはとても残念なことだ。
「大空のサムライ」で一躍アメリカでも有名になった(米題はSAMURAI!) 坂井三郎氏の上官として共に戦っていたパイロットといえば分かるだろうか。
笹井は坂井と共に、ラバウルの激戦地で戦った零戦戦闘機のエースパイロットだった。
最後はアメリカ軍の大尉との一騎討ちで戦死している。
敵地に単機で乗り込むという無謀とも思える攻撃だったが、さすがのエースだけあって、かなり奮闘したことは敵軍の語り草になっていることから、どれほど印象深い戦いぶりだったのかは想像できる。
この時の勇敢な戦闘の様子は、笹井と一騎討ちをした大尉の訓練の際に用いられるエピソードになった。
カール大尉(18.5機撃墜のエース)は特に米国本土帰還後の訓練教官時代に、折に触れては勇敢な零戦パイロットとの一騎討ちを引き合いに出し、
着陸時といえども戦闘態勢を解くな。最後の最後まで絶対に気を抜くな。いかに不利な状況に追い込まれても絶対にあきらめず、直ちに機位を立て直せ。
と戦闘機訓練生に強調していたという。(彼が着陸態勢時に笹井に攻撃されたことから)
大日本帝国軍人のパイロットは敵の大尉までを恐れ慄かせた技能と勇敢さを持った若い男性だった。
意思を受け継ぐ
この様に軍人達も自分の人生を、私生活をかけて、日本を必死に守ろうとしていた。
我々が日本の公教育で大東亜戦争を学習する時は、大概は以下の様に伝えられる。
欧米列強が行っていた様に、日本も領土を広げようという野心があった。領土拡張のために他国への侵略戦争を仕掛けていき、戦い、市民をも巻き込んで、沢山の人を殺戮した。もうあんなおぞましいことは二度とない様に日本は不戦の誓いを立てなければならない。憲法9条を死守し、二度と武器を持たない国にならなければならない。
これは、GHQの呪縛が弱まってきた今、
『果たして本当にそうだったのだろうか?』
と疑って、真実を見つめないといけない時が来ているのではないだろうか。
そうでないと、「日本の未来を子孫に託したい。後は宜しく頼む!」と言って散っていかれた230万柱の御霊はどこで安らげるだろうか。
戦争に反対したり、軍隊を否定したい気持ちも分からなくはない。
私だって戦争は嫌だ。しかし彼らだって同じ様に嫌だったのだ。好きで死んでいく人などいない。
彼らがその葛藤の中でどの様に心の折り合いをつけ、自分の命を国に預けたのかは、目を逸らさずに、しっかり見つめれば、我々がどの様にこれから生きていかなければならないのかも自ずと見えてくるだろう。