今回は日本が正式に降伏の意を表明した日のことを思い返してみようと思う。
・大東亜戦争の真実を知ること
・その戦争が日本人に与えた影響を考えること
・そこからわたしが考察することを他の人に伝えること
それらがいつしか私のライフワークのようになった。
この戦争は日本が国を開いてから、外国と行った戦争では、初めての負け戦であるということをまず覚えておかなければならない。
それまでの日本は連戦連勝だったのだ。
きっとそれが、世界全てを支配したいと思っている西欧列強の目障りになっていったというのが真相だと思う。ましてや、同じ人間とも見ておらず、馬鹿にしていた『黄色い猿」が白人様の肩を並べて列強の仲間入りしてきたとなれば、焦りや屈辱の思いにもなっていたのかもしれない。
その列強がついに牙をむき、日本の息の根を止めようとしてきたのが先の大東亜戦争だ。(教科書では太平洋戦争とか第二次世界大戦と呼ばれる)
始めは一年も持たないと言っていた戦いは次々と戦場を広げていき、遂には4年にわたる長期戦になり、終戦を迎えることになった。
一般的には8月15日が『終戦記念日』として一番大きく扱われる日だが、日本にとってはもう1日、とても大事な日がある。
昭和20年 9月2日だ。
この日は東京湾に浮かぶ敵艦戦艦ミズーリ号の甲板で行われた降伏文書の調印式があった日だ。
以下は敵将マッカーサーが立つ前で、重光全権が涙をこらえて調印する写真だ。
そして、その横に立っているのが外交官の加瀬俊一氏だ。
この方は外交評論家として活躍されている加瀬英明氏のお父上だ。
この加瀬氏のことを知らない方のために、まず簡単にこの加瀬英明氏のご紹介しておこう。加瀬氏は誰もが知るジョンレノンの妻だったヨーコ・オノのいとこでもある。
加瀬英明(外交評論家)昭和11年生まれ。慶應義塾大学卒、エール大学、コロンビア大学で経済学と政治学を学ぶ。『ブリタニカ国際大百科事典』初代編集長を経て、現在は外交や安全保障に関する講演などで活動。自由者の取締役。 経歴以外に興味深いのは、ビートルズのボーカルだったジョンレノンの妻、おのようこさんのいとこでもあり、この二人が来日の際に靖国神社に参拝されていたことを伝えていたことだった。
さて、話に戻る。
加瀬英明氏は中学生になってから、この写真に映る父親の加瀬俊一氏に
『お父さんはミズーリ号の甲板をどのような思いで踏んだのですか』
と質問したことがあったそうだ。
すると答えはこうだった。
『日本は戦闘には負けたけれども、しかし、数世紀にわたって、白人キリスト教徒によって虐げられてきた、奴隷のように扱われてきたアジアの有色人種を開放したんだ。だから戦闘には負けたけれども、我々は戦争には勝ったんだという誇りを胸に秘めて、甲板を踏んだ。調印した重光も同じ思いだった。
この日は、写真でも分かるように、二人は外務省からの遣いとして、西欧では最高の礼服であるモーニングにシルクハットで赴いている。(写真ではシルクハットは脱帽している。)
しかし、後ろの軍人の姿に注目して欲しい。
軍人は戦闘帽をかぶっている。服装も戦闘服の略服を着ている。
この中には海軍の軍人も混ざっているが、まるで作業服かのような汚い服だ。この調印式が9月であったことを考えると、海軍の正装は真っ白い純白の軍服が正装なはずだが、ひとりとして正装で赴かず、戦闘服で甲板に立っている。
アメリカの当時の新聞は、
「マッカーサー元帥に敬意を示すために最高の礼服を着てきたのだろう」
と報じていたらしい。
しかし、彼らの真意は違った。。
重光全権や他お外務省の役人は天皇陛下の使者であるから、陛下に敬意を表すために最高の礼服を着て行った。
対して、陸海軍の軍人たちは、降伏するくらい恥ずかしいことはないので、相手を侮辱する意味で、正装を来てこなかったというのが真相だという。
この写真をさっと見るだけなら、見過ごしてしまいそうなことだが、この服装にはそんな当時の日本人の屈辱の思いが込められていたのかと思うと、胸がつまる。
この軍人たちは、ほんの何週間前まで太平洋中で死闘を繰り広げており、本土に原爆を二発も落とすという非情なことをしてきた敵国アメリカの軍人たちを前に、敵艦のミズーリ号の上で、降伏文書の調印に立ち会うなど、どれほど悔しい思いでこの甲板に立っていたことだろうかと想像する。
なにせ当時は全面戦争をしたいと懇願する軍人もたくさん残っていたのだから。
とにもかくにも、9月2日が正式に日本国がアメリカに対して、降伏を認めた正式な日であり、我々はこの日から、更に屈辱の占領期間に入っていく。
今回はこの触りだけをご紹介して終わる。
昭和天皇陛下の終戦の御詔勅が下された8月15日と並んで、この9月2日にも思いを馳せてもらえたらと思う。