戦後復興の裏の涙:このままではいけない

第二次世界大戦・大東亜戦争
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日本だって悲惨な状況だった戦争末期

韓国人は自分たちだけが戦争被害者であり、日本は戦争犯罪国だと非難し続ける。

世界に向けては、一生懸命に被害者面をして同情を乞おうとすることを続ける。

しかし、軍人のみならず、日本では、一般日本人も同じように、いやそれ以上に過酷な状況で、戦争と対峙していたことを忘れてはならない。

そしてその当時、朝鮮は日本に併合(植民地ではない)されていたので、朝鮮人は日本人であったことも重要な事実だ。

戦争末期の頃は、、

日本中が食べ物に飢え、金目の物は武器を作るために、鍋や寺の鐘でも提供し、学校を辞めて男子は戦場へ、女子は工場で働き、苦しいがそれでもお国の一大事と国民一丸となり耐え忍んでいた。

それを国という権力に国民が翻弄された黒歴史であると、戦後、一貫して左翼は我々の頭の中に刷り込んできたが、国が無くなるか否かの一大事に国民が力を一つにして戦うことがなぜ悪いことなのか。

私の祖母の戦争体験談

今は亡き私の祖母は大正3年生まれなので言わば戦争と共に生きていたような人だ(第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦)。

アメリカ軍の焼夷弾の攻撃で、実家と疎開先で家を二度も消失している。持っていたものを全て失った。当時、3歳だった体の弱い長男は栄養失調で鳥目になった。焼夷弾の嵐の中で逃げ惑う中、その長男や他の子供たちとはぐれてしまい、心細い気持ちで捜索にあたっていたという。

そんな過酷な状況の中で3人の子育てもしなければならなかった。

そんな経験をしているのだから、

お婆さんはさぞ戦争を、アメリカを恨んでいらっしゃっただろう

と思うかもしれない。

日本の大手新聞社の戦争体験者のコラムではいつもそのように戦争に恨み辛みを持つ人の意見ばかりが特集されているから。

でも現実は全く違ったのだ。

戦争の話を聞いて育った子供時代

生まれた時から祖母と同じ家で暮らしていた私は典型的な「おばあちゃん子」だったから、戦争中の話をお茶うけ話のように聞きながら育った。

祖母の家に集うおじいちゃんからは自身の戦争体験をよく聞いた。今思えば、とても貴重な経験をしていたのだなあと思う。

しかし、思い返してみても、そんな祖母やおじいさんから恨みつらみなど一度も聞いたことがなかった。

想像を絶する体験を笑いながら話してくれた。

そして最後にはいつもこの言葉で締めくくる。

 戦争中やったら仕方がなかったんや。あの時はみーんな大変やったんや。

自虐史観を受け入れたわけではない

今の日本では自虐史観が蔓延しているが、当時の日本国民が押しなべて自虐史観を受け入れたわけではない。

特に戦前を青年以降として知る日本人はアメリカに敗戦したという絶望感の中、無言の抵抗で復国に心血を注いだ。

日本全国をことごとく荒れ地や焼け野原にし尽くしたアメリカが

この国は100年は復興にかかるだろう

と言っていた国を復興させるために。

敗戦利得者の裏で屈辱の辛酸を舐めながら、でも無言で「なにくそ!」と地獄から這い上がった日本国民のお蔭で、荒れ地にされた大地から奇跡の復興を遂げたことの凄まじさがあまり語られない。

その屈辱感とご苦労を後世の我々は決して忘れてはならない

それなのに、先人の血と汗と涙と努力の結晶である日本の根幹企業をよりによって中共に売却され、政府も助けないとは遺憾という言葉ではあまりに軽すぎる。

騙されるな。情報はすぐそこにある

戦後生まれ、日教組教育真っ只中の私でさえ、学校の歴史教育にすぐに違和感を感じた。

違和感を感じたが、何もできなかった当時と違い、今の学生はインターネットがある。

この様にブログを読むことも出来る。調べよう、知ろうと思えば、指一本でいくらでも情報は掴める。

これを恐れる左翼は「ネトウヨ」という言葉を作り、そのような風潮さえも軍国主義の再来かの如く悪いことのように印象操作し始めた。

こんな流れに負けるわけにはいかない。

真実を知った人は新たに真実を知る人をもっと増やしていかなければならない。

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