世界の宗教戦争と日本2

日本と世界の違い:宗教や文化
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前回は世界の宗教戦争の悲惨さの話をした。

そして、日本にも宗教戦争が皆無であったわけではないことも伝えた。

一向一揆は教科書では宗教弾圧のように書かれているが、あれは日本における宗教戦争だったと言える。

鎌倉時代に生まれた、浄土真宗(一向宗)と日蓮宗はほかの宗派は一切、認めない過激な宗派だったからだ。

だから、これらの宗派が勢力をつけた場所の神社がすたれ、代々繋がれたきた民話がなくなっていったということもあまり知られていない。

彼らは室町幕府が崩壊した時に、宗教の自由を唱えて、団結し、武装した。

日蓮宗は京都で武装して乱を起こした。仏教徒であるが、武装集団であったのだ。仏教徒の平和なイメージとはかけ離れている。

また浄土真宗も同じように、各地で一向一揆をおこした。加賀谷、伊勢長嶋ではほぼ独立国を作るまで強大になっていた。そして大阪では本願寺を拠点にし、信長包囲網をはった。この集団には信長はさんざん苦しめられた。

一向一揆の軍旗にはこう書かれていた。

「進むは往生極楽。退くは無間地獄」

この武装集団の台頭を抑えるために、延暦寺焼き討ちにまで発展し、信長が皆殺しにするが、これが信長が関わる唯一の戦争だった。

実はこれをやらなかったら宗教戦争が拡大していっていただろうことは間違いない。ヨーロッパのように悲惨なことになったかもしれない。

宗教対立が悪化して日本は内部分裂を起こし、混乱していったに違いない。

そして、その様に日本がバラバラの時期に外国勢力が入ってきたら簡単に侵略されただろう。

国が一つにまとまっていない時ほど、内部侵略はしやすいからだ。

実は信長が当初、カトリック教を受け入れたのは、戦略のうちだったと言われている。さんざん苦しめられた一向一揆や本願寺に対抗するためにカトリック教が対抗宗教として使えると思ったからだ。

前回に詳しく書いたが、その頃ヨーロッパは30年戦争に突入していた。宗派争いで、伝統的なカトリックと新教徒との争いだった。

カトリックは一神教と言いながら、マリアや聖ペドロなどと色々な神と崇められる像がある。それには理由があり、もともと多神教だったゲルマン人の間にキリスト教が広まらないから妥協したという歴史があるからだ。

例えば、「大地の女神をマリア様としましょう、そして、地方の守り神のこの人を聖なんとか様にしましょう」という具合にしたのだ。

だから聖書に戻って、純粋ピュアなキリスト教に戻そうというのがルターやカルバンの宗教改革だった。だから新教は十字架しかない。

そして新教の人達はマリアや聖像を、一向一揆が寺や神社をそうした様に、ヨーロッパ各地でぶっ壊していった。

ヨーロッパの近世は日本ではだいたい江戸時代にあたる。

同じ頃、日本には幸い、信長、秀吉、そして家康のような優秀な支配者がいた。

事の深刻さを察知し、宗教戦争を抑え込んで、世俗化された非宗教国家を作り、それが江戸幕府に継承されていった。

しかし、ヨーロッパはそれができなかった。

ヨーロッパ中で皆が殺し合って、ドイツでは人口が三分の一まで減ったという。カトリック、新教の双方が疲れ果てるまで殺し合った。聖戦だと言っている者どうしが殺し合って、苦しめ合い続けて30年の月日が経った。本当に悲惨なことになっていた。

ある時、ヨーロッパも目覚めて、「こんな事は止めようではないか」と結んだのがウェストファリア条約だ。

いや、、気付くのが遅すぎ。。。

その条約では、王様がカトリックならカトリックでよいではないか。逆もしかりで、地方の宗教がバラバラで良いとするものだった。

つまり、ヨーロッパ全土の統一宗教は決めなくて良いということになった。

ここで神聖ローマ帝国が空中分解する。つまり、江戸幕府がない江戸時代みたいな感じになった。例えば、関ケ原で家康が負け、西軍が勝ったことで、戦国時代が固定された感じなったので、あいかわらず、グタグタな状態が続いたのだ。

そこで、被害を抑えるために最低限のルールを作ろうということで、「戦争と平和の法」を書いたのがグロティウスだった。国際法の父と言われるゆえんはそこだ。(彼が国際法を書いたわけではない)

ここから国際法という認識が広まった。

ここから更に何十回も戦争をやっていき、講和条約の積み重ねで少しづつ出来て行ったのが我々が現在、言うところの国際法なのだ。

国際法の基本的な考えは

戦争を時間、場所、人を区切る

という単純なものだ。

今では当たり前のことがたくさんの宗教戦争を経て徐々に国際慣習法みたいなものができていく。

さて、信長の時代にもう一度、戻るが、信長が一向宗をねじふせた後に、新たな脅威のカトリック教がやってきた。

ポルトガルがイエズス会を送り込んで来たのだ。

日本はその少し前に無茶苦茶にされたフィリピンの惨状を知らなかったわけではない。フィリピンは原住民の伝統的な宗教は根絶やしにされた上に、植民地にされ、民は奴隷となった。

スペイン、ポルトガルは日本にも同じことをしたかったことは明らかだった。彼らの言い分は鉄砲を売ってあげるから改宗しろというものだった。

実はこの誘惑に負けてキリシタン大名になった者がたくさんいた。今では豊臣秀吉が宗教の自由を許さなかった冷酷な支配者のように教科書に書かれているが、それらのキリシタン大名が自分の領地でやっていたことは何故か教科書には書かれていないので殆どの日本人は知らない。私も大人になるまで知らなかった。それも併記すれば教科書を読む側の解釈も随分、変わるだろうと思う。

キリシタン大名達は、領地の寺や神社を売りさばき、それに抵抗する領民の日本人までもを奴隷として売りさばいていたのだ。たくさんの日本人が奴隷としてスペイン、ポルトガルの植民地に送られていた。その事を知ったから秀吉が激高したのだ。

その大名達を止めなかったら、日本もフィリピンのようになっていたかもしれない。

1590年九州を平定。クリスチャン大名を潰し、ポルトガルを追い払うのが伴天連追放令だった。

これらの残党は武器をもったまま田舎に帰って、江戸時代になっても信仰を守っていた。バックについているスペイン、ポルトガルがいたこともあり、3代将軍徳川家光の時に最後の反抗になった島原の乱がおこる。当時の島原は重税を課す、悪名高い大名だったために、経済危機で人々が狂ったのもあいまった。

徳川家はこの島原の乱を総力で潰す。

その頃はスペインの没落時と重なっていたので期待していた援軍は来なかった。ヨーロッパでは新強国のイギリス、オランダの台頭時代に突入しており、スペインとポルトガルもカトリック中の内乱中だったのだ。やっと援軍が来たと思ったら、オランダだった。オランダは新教派なので幕府側につき、オランダに砲撃され、幕府軍の圧勝に終わった。

これが歴史上、日本の最後の宗教戦争となった。 

その後は圧倒的な武力を持つ江戸幕府が諸大名を各地に配置し、参勤交代させて、しっかりした支配制度と軍事力で200年以上の平和な時代を維持した。

「江戸時代は安泰の時代だった」と今となっては簡単に言うが、偶然ではない。圧倒的な軍事力があったから、外国勢力の植民地にならなかったし、国内のテロも抑止できたのだ。

つまり圧倒的な軍事力があるとその国は実は平和を維持できるのだ。ローマ帝国のパックスロマーナ(ローマの平和)をもじって、パックストクガワーナ(徳川の平和)という学者もいるくらいだ。

さて、今の日本はどうだろうか、、。

ふと考えて見たら恐ろしい気分になりはしないか。

圧倒的な軍事力もない、内部侵略され放題なのにそれを防ぐ法律もない。様々な宗教や文化が入ってきても「多様性の尊重」という言葉で何もかも受け入れている。

我々のご先祖は長い歴史の中で起こったありとあらゆる国難の危機を、奇策や気概、武力で乗り越えてきたという前例があるというのに。。

今の日本の平和ボケ具合を見ていたら、歯がゆくて仕方がない。

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