パラオという国はご存知だろうか。
第二次世界大戦中に日本とアメリカが凄まじい死闘を繰り広げた島国だ。
戦後は海の透明度がとても良いことからスキューバダイビングをする日本人達が好んで行く場所であったが、近年は観光客もめっきり減ってしまったという。
空洞化してしまった所にチャイナ資本が怒涛の如く入っているという悲しいニュースも聞く。
そのパラオは親日国としても知られているが、なぜ親日であるのかは知らない人が多い。
まず、パラオの国旗を見て欲しい。
青地に黄色い丸は、青い海に月が浮かぶイメージで、日本の日の丸にとてもよく似ている。これにも心揺さぶられるエピソードがある。
このパラオでの闘いがどういうものであったのかを、涙無くして読めない現地の方とのエピソードを交えて二回に渡って書きたいと思う。
パラオは知る人ぞ知る米軍との激戦の一つが展開された所だが、ガダルカナルやラバウル、島嶼部の硫黄島、サイパン、テニアンなどはよく知っていても、パラオの「ペリリュー島の戦い」は聞いたことがない人はとても多い。
平成27年(2015年)4月に現上皇皇后両陛下は、ペリリュー島の島南部に日本政府が建てた西太平洋戦没者の碑と、アメリカ軍上陸地点付近にあるアメリカ陸軍の慰霊碑にそれぞれ供花された。
この両陛下の訪問で初めてこの国と日本との深い関係を知ったという人も多いが、それでも私の周りでも知らない人はたくさんいる。
しかし、日本人なら誰しも知っておかなければならない程、重要で苛烈な激戦がこの地域であったのだ。
戦後教育ですっかり葬り去られたこの島と日本人との関係を現代を生きる我々は今一度、思い起こししっかりと胸に刻んで生きていきたいという思いでこれを書いている。
パラオは日本から真南に約3000キロのところに位置しており、時差もなく、直行便で約4時間半ほどで行ける太平洋の島国だ。
なぜ南洋諸島が日本だったのかと不思議に思うかもしれないので簡単に説明すると、、
第一次世界大戦後の1920年に戦後処理として国際連盟が開いたパリ講和会議で、ドイツ領であったパラオを日本が正式に委任統治したことから始まる。 日本にはパラオ、サイパン、テニアン島を含むミクロネシア(南洋群島)の委任統治が認められた。
だから、第二次世界大戦では、もともと国連の信託委任統治の正式な日本領土に、米軍が侵攻してきたということになる。日本が侵略したというのはプロパガンダだ。
ペリュリュー島は、現在、首都があるバベルダオブ島から南西に50キロほど行った所にある。南北9キロ、東西3キロの本当に小さい、カニの爪のような島だ。
太平洋の島々をめぐる攻防戦で、マリアナ諸島のサイパン、テニアン、グアムを落とし、日本の絶対国防圏の内側に入ったアメリカは、次いでフィリピンに照準を合わせた。
そこからさらに北上して台湾を攻め、沖縄を攻め、本土を攻めるという戦略ルートを確保しようとしていたからだ。
そこで、フィリピンに照準をあわせた米軍の前に立ちはだかったのが、西カロリン諸島最大の飛行場を持つペリリュー島だった。
その日本海軍の十字滑走路を奪取するため、米軍はなんと5万の大軍を差し向け、昭和19年9月15日から11月24日まで「ペリリュー島の戦い」が行われた。
日本軍戦死者は約1万名、米軍の戦死傷・行方不明者約8000名(戦死者約1800)という激戦になった。
米軍の上陸部隊である第一海兵師団のウィリアム・ルパータス少将は戦闘前、
と豪語していたという。
しかし、火炎放射器や水陸両用戦車などの最新兵器を投入したアメリカ軍は、苦戦した。当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は、2カ月半に及んだ。
実際には73日間の激戦となり、米軍最強の再精鋭部隊といわれた第一海兵師団1連隊は日本軍に滅多うちにされて撤退し、隣のアンガウル島を攻めた陸軍第八一歩兵師団と交代するという屈辱を味わった。
第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%。
そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため、「忘れられた戦場」と呼ばれている。
迎え撃つ日本軍は、中川州男(くにお)大佐率いる水戸の歩兵第二連隊を中心とするペリリュー守備隊。
その守備隊は満州で鍛え上げた精強部隊の現役兵の集まりだった。そして、それに海軍西カロリン航空隊ペリリュー本隊が加わっていた。
ペリリュー島では陸軍の戦いとみられがちだが、そもそもペリリュー島には海軍基地があり、そこを守るために陸軍一四師団の一部がやって来ていた。
米軍5万対日本軍(陸海軍総勢1万1000)の戦いだ。
どれだけ激しい闘いになったのかはこの数を見ても想像できる。
闘い方もこの島が変換点となった。
それまでの南方戦線、太平洋の島々の戦いで日本軍は、「バンザイ突撃」という総攻撃をかけ、敵弾に次々と倒れていた。
しかし、日本軍はアッツ島の戦い(18年5月)以後続けてきた組織的な「玉砕」をこの地で初めて禁止した。
今までの消耗の激しい戦法を改め、徹底持久戦の方針をうち立てた。
昭和19年9月の米軍の上陸に対し、迎え撃った日本軍は洞窟などを拠点に2カ月以上にわたって組織的に戦った。
米軍が上陸する海岸付近には、巧みに配置されたトーチカ陣地を築き、引きずり込んだ内陸の山岳部では500以上の洞窟を掘った「複郭陣地」に潜んで迎え撃つ、二段構えの戦法だ。
ペリリュー島は隆起珊瑚でできた非常に硬い島なので、複郭陣地構築は、大変に苛酷な作業だったことは想像に易い。
この持久戦に持ち込む戦法は日本軍の戦術上の転換点となり、約3カ月後の「硫黄島の戦い」にも引き継がれた。
中川大佐は、
「戦は、つまるところ人と人との戦いである。戦う意志と力を持つものがいる限り、戦いは終わらず、勝敗も決まらない。陣地を守る事はその戦いぬくための手段のひとつ。問題はできるだけ多数の敵を倒し、できるだけ長く長く戦闘を続けることにある。それには守る陣地が多いほどよい」
と言葉を残している。
さて、1944年、ペリリュー島の戦いが始まった。
開始のその日から補給を断たれた日本軍の数百倍の火力をペリリュー島に投下し、「2,3日で陥落させられる」との宣言の下、海兵隊を主力とす第1陣28,000人のアメリカ軍が島に上陸を始めた。
その時、日本軍の反撃が始まり、米軍の第一次上陸部隊は大損害を被り、一時退却をするほどだった。
この戦闘で米軍の血で赤く染まった海岸は今でも「オレンジビーチ」と呼ばれている。
1か月半後には、米軍第1海兵師団が全滅している。
米軍の司令官は心労から心臓発作を起こし、後方に送られている程、苛烈な戦いとなった。
昭和天皇陛下が毎朝「ペリリュー島は大丈夫か」とご下問なさったという話や、11回のご嘉賞(お褒めの言葉)にも預かったことから「天皇の島」と呼ばれた。
さらに1か月後は、日本軍側も、とうとう兵力弾薬も底を尽き、司令部は禁止していた玉砕を決定した。
中川州男隊長、村井権治郎少将、飯田義栄中佐が、この日、司令部で割腹自決を遂げている。
その後に、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られた。
そして翌朝にかけて、根本甲子郎大尉を中心とした55名が、最後の突撃攻撃を敢行した。
こうして11月27日、ペリリュー島は、ついに陥落した。
水も食料も補給が全くない状態で、3日で終わるとされた戦闘は実に2か月半経過していた。
乏しい食料の中、死体を食べようとして撃ち殺された日本兵もいた凄惨な戦場だった。生存者の一人で、歩兵第2連隊に所属していた富安博さんは、NHKのインタビューに次のように答えている。
なにしろ戦ったあとっちゅうのはもう、見られたもんじゃねえから。戦ったあとは、もう、第一線というとこは死骸ばかりだから、アメさんと日本人で。いやあ、すごい。それが、大体20日ぐらい過ぎると、もうだんだんだん肉がとけてきちゃうね、スコールがあたるし。だから、夜、歩くときにゃ、あばら骨踏んで歩っているようだよ「バリッバリッ」ってね。大体、あの島で死んだのが2万幾らだから。日本人は7000人ぐれえ、かな。すごいよ。で、まだ、死んだ人間、食べるっていう人もいんだよ、中には。腹が減っちゃって。それを食べにいったんだ、っていうんだが撃たれちゃった、敵にね、見つかって。
戦闘後、散らばる日本兵の遺体をしばらく経って戻ってきたペリリューの島民たちがひとつひとつ、きれいに片付け、埋葬してくれた。
この戦いでは、日本軍の将兵約1万人はほぼ全滅した。
しかも、生き残った日本兵34人は終戦後も1947年4月までの約2年間もの間、密林に潜んでゲリラ戦を戦っていたという。
この凄まじい闘いの中で散っていかれた魂は無事に靖国に戻れたことを祈るばかりだ。
しかし、悲しい事に、ペリリュー島にはまだ数多くの遺骨が島内の洞窟や塹壕に残されている。
次の回で、パラオの国旗の由来と、日本軍とパラオの現地人とのエピソードをご紹介したい。
**この記事の編集過程で悲しいニュースが飛び込んで来た。日本軍守備隊として戦い、ペリリュー戦線から生還された34名の最後の生き残りの永井敬司さんが98歳で大腸がんのためにお亡くなりになった。心よりご冥福をお祈り申し上げたい。
永井敬司さんのご冥福を心よりお祈り致します。 https://t.co/cEBAN2chkg
— アメリカから見た日本 (@yamatogokorous) November 8, 2019
コメント
[…] 前回にこの島での凄まじい死闘の様子は書いた。 […]