LGBTQはどの様にアメリカで生まれたのか❓簡単な歴史をおさらいしておこう。

アメリカ全般
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人類は大丈夫か?この流れはどこまで行くのか?

日本でもすっかりLGBTQという言葉は定着してしまったようだ。

何となく『性的な嗜好に関して寛容になろう!運動』だと認識している人がほとんどだろうし、言葉だけが一人歩きしてしまい、これが社会に与える影響などは深く考える暇さえ与えられぬまま、このカテゴリーに入る人達を差別する人は「悪人」というレッテルを貼られてしまう世の中にあれよあれよという間になってしまった感がある。

自民党の杉田水脈議員は、LGBTに関する発言をある雑誌でしたことで、かなり悪意のある切り取りをされ、真意をねじ曲げられたまま、拡散され、血祭りにあげられていたのを目撃した人は多かったのではないだろうか。

これは単にゲイやレズの人たちを差別してはいけないという運動と捉えて良いのだろうか?

私にはその裏には見えないように隠された邪悪な意図があると見ている。

実際に表で活躍している人がそうかと言えば違うと思う。

彼、彼女は純粋に差別されない世の中を望んでいるのだろう。

私の頭にあるのは、それを利用する人達だ。

東京で五輪が開催されたことで、トランスジェンダーの男性が(しかも、どこからどう見ても男性)女性として競技に出て、金メダルを獲得したりするニュースを見て、とてつもない違和感を持った人も多いと思う。

今、アメリカではこの動物に本来備わった種の保存の鉄則である【性】にあまりに過剰に反応し過ぎた挙句、アメリカ医師会の中で、赤ん坊の出生証明書の性別表記も無くそうという動きまである。

もうそんな所まで来ているのだ。

こんな早い流れで何も考えていない人達が押し流されていくと、いずれ

「名前も差別を助長することになるから番号で呼ぼう。」

とかになって行く可能性もなきにしもあらずだと思っている。

さて、今回の記事では、その辺りのことを詳しく考察する前に、基礎知識としてアメリカにおけるLGBTQの歴史について書いていこうと思う。

アメリカにおけるLGBTQの歴史

第二次世界大戦前

1924年:ドイツから移住してきたヘンリー・ガーバーがシカゴで最初の同性愛者の権利を主張する団体「The Society for Human Rights」を設立。メンバーのほとんどが逮捕されたため、組織は消滅。

1928年:イギリスの作家ラドクリフ・ホールが、画期的なレズビアン小説『孤独の井戸』を発表。これにより、アメリカとイギリスの両方で、同性愛の話題が公の場で話題になる。

第二次世界大戦(1930~1945年)

1933年~1945年– ドイツの同性愛者10万人近くが検挙され、ユダヤ人と一緒に強制収容所に入れられる。彼らの服にはピンクの三角マークが付けられていた。

1941年 – 真珠湾攻撃の後、アメリカ国民全員が戦争に参加し、1942年には1日14,000人の割合で入隊。欧州で戦った男性は、休暇中に同性との関係をアメリカよりもリラックスして持ったという。

1945年 – 連合軍による解放後、ナチスの強制収容所から解放された最後のグループが同性愛者の男性達となった。(ドイツ刑法175項では、男性同士の同性愛関係は違法とされていたため。)

第2次世界大戦後(1945~1960年)


1948年 – アメリカの生物学者であり、インディアナ大学の性科学者であるアルフレッド・キンゼイが、男性の同性愛について論じた最初の報告書「Sexual Behavior of the Human Male」を発表(キンゼイ報告書とも呼ばれる)。

1950年– 米国議会が「政府における同性愛者およびその他の性倒錯者の雇用」と題した報告書を発行。連邦政府が秘密裏に従業員の性的指向を調査していたことを受け、議員に配布される。報告書では、同性愛が精神疾患であることから、同性愛者は国家にとって「安全保障上のリスク」になるとしている。

1950年 – カリフォルニア州ロサンゼルスで活動家のハリー・ヘイによってマタチン・ソサエティが結成され、米国で最初の持続的な同性愛者権利団体のひとつとなる。

1952年 – クリスティン・ヨルゲンセンが性転換手術を受け、最も有名なトランスジェンダーの一人となり、その後ショービジネスで成功を収める。

1952年 – アメリカ精神医学会の診断マニュアルで、同性愛が治療可能な社会病理学的人格障害として記載。

1952年– 米国議会が移民法を可決し、ハリー・S・トルーマン大統領が署名。この移民法では、”同性愛者、精神病質の人格、てんかん、精神的欠陥を持つ外国人 “を禁止。

1953年(4月27日) – ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が大統領令10450を発布し、同性愛者は安全上のリスクがあるとして、連邦政府で働くことを禁止する。

(この命令は1993年にビル・クリントン大統領と米国議会が「Don’t Ask, Don’t Tell」法を制定するまで適用された。_

1954 – ヘルナンデス対テキサス(最高裁判決)
全会一致の判決により、メキシコ系アメリカ人やその他の国籍の人々が憲法修正第14条により平等に保護されることが宣言された。それまでは、白人以外の人々は裁判所の陪審員から組織的に排除されていた。

1954 – ブラウン対教育委員会事件(最高裁判決)
全会一致で、学校での分離は平等ではなく、憲法修正第14条の平等保護条項に違反すると判断した。分離は平等であるとした過去の判決(Pressy v. Ferguson, 1896年)を覆した。

1955年– カリフォルニア州サンフランシスコで、フィリス・リオンとデル・マーティンによって、初のレズビアン権利団体「ドーターズ・オブ・ビリティス」が設立される。

1957年 – アメリカ陸軍地図局の天文学者フランク・カメニーが、大統領令10450号の影響で、同性愛を理由に政府職員から解雇。ハーバード大学で天文学の博士号を取得し、ジョージタウン大学で天文学の教授をしていたが、政府の仕事に就くことになった。カメニーはこの判決を受けて最高裁に上告したが、却下。

公民権、宇宙開発競争、ベトナム、抗議活動(1960-1975年)


1961年 – 政府機関から解雇された天文学者のフランク・カメニーが、マタチン・ソサエティのワシントンD.C.支部を設立(同ソサエティは1950年にロサンゼルスで設立されたもの)。

1962年 – イリノイ州が、同意した成人2人の間で行われる同性愛行為を、州として初めて非合法化。

1963年 – マーティン・ルーサー・キングの仲間であり、ゲイのアフリカ系アメリカ人男性であるベイヤード・ラスティンが、キングの「I Have a Dream」演説で最高潮に達したワシントン大行進の開催に協力。

1966年 – コンプトンのカフェテリア暴動(サンフランシスコ)。サンフランシスコのトランスジェンダー達が、警察による継続的な嫌がらせに反応。数日後、抗議活動は停止。その結果、トランスジェンダーの人々を支援するためのNTCU(National Transsexual Counseling Unit)が設立。

1967年 – クレイグ・ロドウェルにより、ニューヨークにオスカー・ワイルド記念の本屋がオープン。ゲイの歴史とゲイの権利をテーマにした米国初の本屋。

1967年 – ラビング対バージニア(最高裁判決)
全会一致の判決により、異人種間の結婚を禁止する州法や混血法を覆す。異種族結婚禁止法が修正第14条の平等保護条項に違反していることを認めた。最初の異性交配法は1691年に成立。

1969年(6月27日~29日) – ストーンウォール暴動(ニューヨーク市)。ストーンウォール・インは、ニューヨークのグリニッジ・ビレッジにあったゲイ・バー。土曜日の早朝に行われた警察の不当な襲撃に対し、ゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー、ストレートの人々を含む400人以上の人々が自分たちの扱いに抗議し、警察を押し退けた。その後の6日間、ある程度の暴動が続き、ストーンウォール・インは閉鎖。ストーンウォール暴動は、同性愛者の権利にとって極めて重要で決定的な瞬間となる。

1969年 – ストーンウォール暴動後のニューヨークで、すべての人々の性的解放を主張する組織「ゲイ解放戦線」が結成される。

1970年 – ストーンウォール暴動の1周年を記念して、サンフランシスコやロサンゼルス/ウェストハリウッドなど、全米の複数の都市で初のゲイ・プライド行進が開催。

1972年 – ニューヨークでNational Bisexual Liberation Groupが結成される。

1972年 – ジョナサン・ネッド・カッツが書いた演劇「カミングアウト!」がニューヨークで初上演され、植民地時代から現在までのゲイの生活を歴史的な視点から描く。

1973年 – アメリカ精神医学会は、同性愛を精神障害として分類することを変更。同性愛がAPAの精神障害リストから完全に削除されたのは1987年。

1974年 – エレイン・ノーブルが、オープンリー・ゲイとして初めて州議会議員に選出され、マサチューセッツ州下院議員を2期務めた。

保守派の復活(1975年~2000年)

1976年 – 書籍『Gay American History』を出版。ジョナサン・ネッド・カッツが1972年に上演した舞台をもとに執筆。これはアメリカのゲイの歴史を記録した最初の本。


1977年 – アメリカの元歌手で、ミス・アメリカ・ページェントで優勝したアニータ・ブライアントが「Save Our Children」というグループを結成し、フロリダ州デイド郡の同性愛者差別防止条例に抗議。

彼女のキャンペーンは成功し、この条例は廃止されたが、ハーヴェイ・ミルクをはじめとするゲイ・レズビアンの活動家や団体は、この行為を非難し、ブライアントがスポークスマンを務めていたフロリダ・シトラス・コミッションの製品をボイコット。

1978年:ブライアントはフロリダ・シトラス・コミッションのスポークスマンを解雇され、ハーヴェイ・ミルクは暗殺された。

1978年 – カリフォルニア州の州議会で提案された「ブリッグス・イニシアティブ」は、有権者の58%の賛成で否決されました。この提案は、ゲイやレズビアンがカリフォルニア州の公立学校で働くことを禁止するもの。

1978年6月25日 – サンフランシスコのゲイ・フリーダム・パレードでレインボーフラッグが初めて掲揚され、ゲイとレズビアンのプライドの象徴となる。

1979年 – レズビアンとゲイの権利のためにワシントンで全国行進。10万人以上の人々がゲイ・レズビアンの権利を支持して集まる。

1979年 – 全国組織のPFLAG(Parents and Friends of Lesbians and Gays)の支部が全米で設立される。

1981年(6月5日) – エイズの流行が始まる。米国疾病管理センターが、翌年にAIDS(後天性免疫不全症候群)と名付けられることになる稀な肺疾患の最初の症例を報告。(2007年までにAIDSで死亡した米国の男性、女性、子供は合計583,298人に上る。)

1983年 – クリーブ・ジョーンズ、マーカス・コナント、フランク・ジェイコブソン、リチャード・ケラーがサンフランシスコ・エイズ財団を共同設立。

1985年 – ロック・ハドソンが死去。ロック・ハドソンは、1950年代から1960年代にかけて多くの映画に出演した主役級の俳優。エイズによる合併症で死亡。死後、彼がゲイであり、複数の男性と交際していたことが明らかに。

1987年、ニューヨークで「ACT UP」という団体が結成される。ACT UPの目的は、エイズ患者の生活に影響を与え、立法、医学研究、治療を提唱し、病気に終止符を打つことであった。この組織は現在も活動を続けている。

1993年:アメリカ議会が可決し、ビル・クリントン大統領が署名した「Don’t Ask Don’t Tell」により、ゲイやレズビアンの兵役が認められるようになる。入隊審査の際に性的指向を問われることはなくなる。

1994年 – オリンピックで4度の金メダルを獲得し、歴史上最も偉大なダイバーの一人とされるグレッグ・ルーガニスが、ニューヨークで開催された「ゲイ・ゲームズ」の一環として、ゲイであることを公式にカミングアウト。その後、1996年に「Breaking the Surface」という本を出版。

1997年 – コメディアン、テレビ俳優、テレビ司会者であるエレン・デジェネレスは、オプラ・ウィンフリー・ショーのインタビューでレズビアンであることを公にした最初の人気芸能人の一人であり、テレビ番組 “Ellen “で初めてゲイであることを公言。その後、彼女は「タイム」誌の表紙やその他の報道機関で取り上げられた。

1998年:ワイオミング大学に通う21歳の学生マシュー・シェパードが、ゲイであることを理由に残忍に襲われ、ワイオミング州ララミー郊外の野原でフェンスに縛られ、放置される事件が起こる。数日後、彼はその傷がもとで死亡。この事件は、アメリカで最も悪名高い反同性愛者のヘイトクライムのひとつであり、10年後の2009年には、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの人々に向けられた偏見に満ちた犯罪を取り締まる連邦法「ヘイトクライム防止法」が成立することになった。

21世紀の転換期(2000年〜現在

2003年: ローレンスvs.テキサス(最高裁判決)
修正第14条のデュープロセス条項に基づき、憲法上の自由とプライバシーの重要性を宣言し、同性愛者やレズビアンの性行為を犯罪とするカンザス州の法律を、6対3の賛成票で違憲とする判決を下した。また、バウアーズ対ハードウィック事件(1986年)の判決を覆し、裁判所の判断は間違っていたとした。

2008年11月 :カリフォルニア州で提案8号が52%の賛成票で可決され、結婚は男女間のものであることが宣言される。

2010年 :米国議会が「Don’t Ask Don’t Tell」の廃止を可決し、バラク・オバマ大統領が署名したことで、ゲイやレズビアンの人々がオープンに軍務に就くことができるようになる

2013年 :ホリングスワース対ペリー/カリフォルニア州提案8号(最高裁判決
5対4の投票により、最高裁はカリフォルニア州最高裁の判決を覆すことはできず、申立人がこの申し立てをすることは法的にできないということで合意。さらに、憲法修正第14条の平等保護条項は、カリフォルニア州が結婚を一人の男性と一人の女性の結合と定義することを禁止するものではないとの判決を下す。カリフォルニア州の提案8号の推進派は、提案8号を違憲とした下級裁判所の判決を不服として上訴。最高裁はこの訴訟を審理しないため、提案8号は違憲とされ、カリフォルニア州では同性カップルが合法的に結婚できるようになった。

2013年 :米国対ウィンザー事件/結婚防衛法(DOMA)の廃止(最高裁判決
5対4の投票により、結婚を男女間だけのものと定義することは、憲法修正第5条の平等な保護の保証の下で違憲であるとの判決が下される。結婚防衛法(DOMA)は、1996年に米国議会で可決されたもので、結婚や法的結合は一人の男性と一人の女性の間で行われるとしている。本判決は、この議会法を違憲とし、婚姻関係を定義する権限は各州にあるとした。

2015年 -:オーベルジュフェル対ホッジス(最高裁判決)
裁判所は5対4の投票により、結婚する基本的な権利は、米国憲法修正第14条のデュープロセス条項と平等保護条項の両方によって同性カップルに保証されているとし。50州の全ての州は同性カップルの合法的な結婚を認めなければならなくなった。

2020年:米国最高裁判所は、LGBTQの人々を、性的指向や性自認を理由とした職場での差別から保護する判決を下した。

さて、アメリカにおけるLGBTQの運動の歴史をおさらいしたので、次は

・このLGBTQ運動は日本に必要なのか?

また、

・この運動が日本に及ぼす影響は何か?

などについても考察していきたいと思う。

【今回は『LGBTQはどの様にアメリカで生まれたのか❓簡単な歴史をおさらいしておこう。』について語っていきました。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
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