もくじ
世界一のハンサムに納得がいかない!
K-popバンドとして人気のBTS防弾少年のメンバーの一人(キム・テヒョン)が「2022年世界で最もハンサムな男」のランキングで一位に選ばれたという記事が話題になっていた。
元々、BTSには何の興味もないが、5位にあのベッカム、2位のポール・ラッドを差し置いて一体、どんなにハンサムな人なのかと覗いてみたら。。。
ただの整形顔だった。。
昔からハンサムにはうるさい私は納得がいかない。
そこで、ツイッター上でフォロワーさんが選ぶ「世界一のハンサム」を募集してみたら、私の様に世界ランキングに納得がいかない人が大勢いたようで、とても沢山の【納得がいくハンサム】が寄せられた。
アメ見たフォロワーが選ぶハンサム一覧はこちらを見てね!
今までストレスの多い政治系のツイートを長年やってきたが、今までで
一番見ていて楽しいリプ欄だったw
皆様、私のストレスを軽減してくださりありがとうございました。
ハリウッドで超絶人気の日本人俳優を知っている?
さて、今回の記事の本題はあんな整形顔の軟弱男でなく、アメリカ白人女性の心を鷲掴みにし、虜にしていた本物のハリウッドスター日本男児ハンサムだ。
この男優さんの存在は、私も恥ずかしながら子供に教えてもらうまで知らなかった。日本のテレビで紹介されているのも見た事がないし、SNSか何かで話題に上がっているということさえ見たことがなかったからだ。
最近は日本でも出演映画や出演俳優の宣伝などで
「日本人のハリウッド進出!」
などという文言で話題にしようとするが、実は戦前にハリウッド界ではNO.1の人気を誇っていたのが日本人俳優だったということはご存知だろうか。
その名は
早川雪洲
簡単な略歴を始めにご紹介。
・1886年6月10日 生まれ・ 1973年11月23日没
・俳優、映画監督、映画プロデューサー、脚本家
・アメリカを中心に日本、フランス、イギリスで活躍した国際俳優
・アメリカとヨーロッパで主演男優としてスターダムにのし上がった最初のアジア系俳優
・サイレント映画時代の時代の1910年代から1920年代初頭にハリウッドで最も人気のあったスターのひとり。
・エキゾチックな美貌と魅力的な悪役で、公然人種人差別が行われていた時代にアメリカ白人女性の心を鷲掴みにし、ハリウッドで最初の男性セックスシンボルのひとりにまでなった。
1907年に21歳で単身渡米した雪洲は1913年にハリウッドで映画デビューし、1915年の「チート」という映画で白人女性を誘惑する悪役の日本人役で人気を獲得し、トップスターの地位を確立した。
しかし、その一方でその頃のアメリカでは排日運動が高まっていると不幸があり、日本人社会からは雪洲の役柄が反日感情を助長するとして強く非難された側面もあった。自身の映画会社ハワース・ピクチャーズ・コーポレーションを設立し、プロデューサー兼主演俳優として活動したが、1922年には反日感情のあまりの高まりのためハリウッドを離れてしまった。
その後は私生活での女性問題や第二次世界大戦など波乱な人生を送りながら、1960年代まで欧米や日本で映画、舞台やテレビに出演。キャリア後期の代表作『戦場にかける橋』(1957年)の捕虜収容所所長役は、雪洲の最も有名で高く評価された演技となり、第30回アカデミー賞では助演男優賞にノミネートされた。妻の青木鶴子もまたハリウッド草創期に活躍した映画女優だった。
ハリウッドで破格のギャラ
雪洲はラスキー社と4年の専属契約を結んだ際、週給は1000ドルで、半年ごとに500ドルがプラスされた。これはエッサネイ社と契約したチャールズ・チャップリンの週給1250ドルや、フェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーと契約したメアリー・ピックフォードの週給1000ドルとほぼ同額であり、当時の名前で観客を呼べる映画俳優の週給が200ドルから300ドルだったことを考えると破格なものだった。
同社で4本目の出演作となるセシル・B・デミル監督の『チート』(1915年)で、雪洲が演じたのは、プレイボーイでお金持ちの日本人美術商のヒシュル・トリ。有閑夫人を借金のカタにとり、自分の所有物である証として彼女の肌に焼きごてを押し付け、最後には白人の制裁を受けるという非道な悪役だった。作品はラスキー社史上最高の12万ドルの興行収入を稼ぐ大ヒットとなり、雪洲の人気は一気に高まった。
とくにアメリカの白人の女性観客には、雪洲のエキゾチックな容貌や色気、残忍なキャラクターが、それまでに味わったことのない魅力となり、雪洲はたちまち女性観客から熱狂的に支持されるマチネ・アイドルとなった。
白人女性ファンの熱狂ぶり
雪洲は二枚目といわれ、野上は若い時の雪洲の容貌について
「どこかエルビス・プレスリーに似ている。プレスリーをもっと白面の紳士にしたような雰囲気で、たしかに女性が好む顔立ちである」「知性と甘さと男らしさがほどよくミックスされた、完璧に近い美男子である」
と評している。
雪洲の運転手をしていた宮武東洋は、当時の雪洲の女性ファンからの人気ぶりについて次のように証言している。
早川雪洲。今世紀最大の映画スターです。彼の登場は嬉しかったな。日本人の男なんか相手にされない時代にね、さっそうと現れたんですよ。…白人の女性がね、日本人の男に、あなた、身を投げ出すのです。…車が劇場に着くでしょう、プレミアショーかなんかのね、彼が下りたところが運悪く水溜まりでしてね、それで雪洲がちょっと困った顔をしたんですね。するとね、十重二重と取りかこんでいた女性たちがね、みんなわれ先にと着ている毛皮のコートを雪洲の足元に敷くのですよ、彼の足を汚してはいけないとね。
ハリウッドとの決別
しかし、『チート』は日系アメリカ人社会で大きな物議を呼び、残忍な日本人として描かれる雪洲の役柄が不正確であると非難された。
というのも、当時のアメリカでは黄禍論が浸透し、アメリカ人にとって日本は不安や脅威の対象になっていた。とくに西海岸では排日運動が高まりつつあり、1913年にはカリフォルニア州で日本人の土地所有を禁じる外国人土地法が制定された。
1916年には「早川撲殺期成同盟会」なる組織が作られたが、ハリウッドで活躍した俳優の関操によると、当時の全米では約30団体もの「雪洲撲殺団」が作られた。雪洲は覚悟を決めて遺書をしたため、ロサンゼルスの自宅から撮影所までの道を、標的にならないように自動車ではなく歩いて通ったという。
1920年代に入ると、アメリカでは第一次世界大戦後のナショナリズムの高揚の中、反日ムードがますます濃くなっていた。ロサンゼルスの街でも排日を呼びかける宣伝カーが走り、それは雪洲の自宅の前にもやってきた。そんなアメリカで雪洲の人気は徐々に低下し、スターの地位を維持することが困難となっていった。
さらに雪洲の成功を面白くないと思う白人も少なからずおり、雪洲の身辺は次第に不穏なものになり、そんな雰囲気は撮影現場でも漂っていた。そのような背景の中で、雪洲は最も脂の乗りきっている時期を過ごしていたにもかかわらず、ハリウッドに対する不信や不安、そして身の危険を感じるようになった。
そんな社会雰囲気の中、排日ムードにさらされている日系人は、『チート』を白人たちの反日感情を助長する「排日映画」と見なし、以前よりも差別排斥が酷くなることを懸念したわけだ。
『羅府新報』は雪洲を「排日俳優」「売国奴」と呼び、「在米同胞が常に米国社会に親和しようと努力しているのに、早川は臆面もなくこれを破壊した」と批判した。雪洲は27日にロサンゼルスの日本人会に出頭して聴取を受け、29日付けの『羅府新報』に次のような謝罪広告を発表した。
過般当市ブロードウェー、タレー座において興行せし芸題『チート』の映画ははからずとも在留同胞諸君の感情を害したるは小生の衷心遺憾とするところに有之候。今後はじゅうぶん注意をはらい、ふたたび累を同胞社会におよぼすなからんことを期すべく候。
それでも波紋は収まらず、白人不良青年団や悪童による日本人迫害や、白人雇い主による日本人の解雇などが続き、アメリカ各地では日本人会を中心とする上映中止運動が広がった。
日本本国でも政府が在米日本大使館を通じてデミルに正式に抗議し、右翼団体が雪洲を「日本人の残忍さを誇張して世界に恥をさらした売国奴」と呼ぶなどの騒ぎとなり、『チート』は国辱映画とされて国内で上映禁止となった。
それ以後、雪洲は「国賊」というレッテルを貼られ続けることになり、日本からは毎日、雪洲本人に見せられないほどの罵倒や屈辱に満ちた内容の手紙が大量に届いた。
先日、一般人民投票によって、日本人を排斥すべきかどうか、土地法、移民法を通過さすべきかどうか、イエス、ノーの投票があった。あのとき、「イエスと投票しろ」と宣伝カーを繰り出した、そのなかに僕のいる映画会社からも車が出ていたのを、僕はよく知っているし、現に見た。そして僕の住んでいるこのハリウッドがイエスの投票をしたために、あるいはロスアンゼルス全部がイエスの投票をしたために、日本人にとってもっとも致命的な土地法案は通過してしまった。(中略)道を歩く日本人はトマトをぶつけられたりで悲しいめに会った。それのみならず、撮影中に僕を殺そうとした事件が起きた。こういう空気の中で、僕はこれ以上一日も過ごすことはできない。きょう限りハリウッドに訣別する。(中略)いろいろお世話になったが、今日をかぎりお別れする。
この言葉通りに雪洲は自身の映画会社を解散し、ハリウッドを後にした。それから約2か月後の6月29日には、妻と渡米後初めて日本へ一時帰国した。この頃の日本では、雪洲はハリウッドで成功したスターとして大きな注目を集め、映画ファンだけでなく一般大衆からも英雄視された。雪洲は至るところで熱狂的な歓迎を受け、東京駅では雪洲夫妻をひと目見ようと大群衆が押し寄せたという。
その一方で「国賊」「売国奴」のレッテルが拭い去られたわけではなく、歓迎と同じくらいに不歓迎の声も多く、雪洲夫妻は不歓迎団体や抹殺社を称する団体に付きまとわれ、常に不安と恐怖がついて回った。
第二次世界大戦後:1945年 – 1967年
ハリウッドに復帰
1945年に第二次世界大戦が終結し、雪洲は何本かのフランス映画に出演する機会を得たが、それだけでは生活することができず、紙や絹のハンカチに描いた絵を売って食いつないでいた。
1948年、雪洲はアメリカの人気スターのハンフリー・ボガートから「映画で共演してほしい」というオファーを電報で受けた。ボガートは自らのプロダクションで製作する新作『東京ジョー(英語版)』(1949年)に、若い頃から憧れた雪洲を出演させたいと望んだ。『東京ジョー』で雪洲が演じる役柄は、サイレント時代から演じ続けてきた悪役の日本人だったが、雪洲にとってはハリウッドに復帰できるチャンスであったため、このオファーを引き受けた。
連合国の占領下にある当時の日本は、まだ講和条約が締結されておらず、公式には依然として連合国の交戦国となっていたため、政府要人でもない日本人が自由に国を移動することはできず、当然フランス在住の日本人にアメリカ行きの査証は下りなかった。
そんな時代にもかかわらず、1948年末に雪洲はパリのアメリカ大使館から特別査証を発給され、特例的に渡米することができた。
1948年12月31日、雪洲はパリを発ち、年明けの1949年元日にニューヨークに到着した。16年ぶりにアメリカの地を踏んだ雪洲は、日本が3年前までアメリカの交戦国だった事情で、反日感情や人種差別から石でもぶつけられることを覚悟していたが、多くのアメリカ人や映画関係者からは歓迎を受け、『ニューヨーク・タイムズ』も雪洲のハリウッド復帰を大々的に報じた。
再び日本で活動
1949年、『三人帰る』の撮影を終えた雪洲は、ちょうどアメリカを訪問していた大映社長の永田雅一に帰国を勧められ、10月に約13年ぶりに日本の土を踏んだ。続いて雪洲は、ヴィクトル・ユゴーの代表作を明治時代の日本を舞台に置き換えて映画化した『レ・ミゼラブル あゝ無情』(1950年)で、ジャン・バルジャンに相当する主人公を演じた。
その後も雪洲は日本で映画出演を続け、『悲劇の将軍 山下奉文』(1953年)や『日本敗れず』(1954年)といった戦争映画で本領を発揮した。山下奉文の演技はその風格ある演技が高く評価された。
雪洲はこれらの作品で、中年の威厳のある容貌を活かした悲劇の軍人役がはまり役となり、その後も貫禄のある役柄を演じることが増えた。
『戦場にかける橋』(1957年)
1956年、雪洲は帝国ホテルに滞在していたイギリスの映画プロデューサーのサム・スピーゲルから、ハリウッドの大作映画『戦場にかける橋』の出演依頼を受けた。雪洲が演じるのは日本軍捕虜収容所所長の斉藤大佐という重要な役であり、監督のデヴィッド・リーンは『悲劇の将軍 山下奉文』を観て雪洲の演技を気に入り、斉藤大佐役は雪洲以外に考えられないと思ったという。
完成した作品は1957年に公開されると好評を博し、興行的にも高い成功を収め、雪洲の演技も「武士道を貫く日本軍人をよく演じた」と批評家に高く評価された。作品は第30回アカデミー賞で作品賞など7部門を受賞。また、雪洲は第15回ゴールデングローブ賞の助演男優賞にもノミネートされ、ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞では助演男優賞を受賞した。雪洲にとって『戦場にかける橋』は人生最大の評価を受けた作品となり、鳥海が「日本の中高年世代なら、雪洲といえば『戦場にかける橋』を思い出す人が少なくないだろう」と述べているように、多くの人が雪洲のイメージとしてまず頭に思い浮かべるような代表作となった。
キャリア末期
『戦場にかける橋』で再び脚光を浴びた雪洲は70歳を超えていたものの、再び国際スターとして活躍し、日本とアメリカを行き来しながら映画やテレビ、舞台に出演した。
1958年2月から9月までのアメリカの長期間滞在中には、オードリー・ヘプバーン主演の『緑の館』(1959年)で先住民の酋長役を演じた。映画以上にテレビへの出演依頼が相次ぎ、そのうちテレビシリーズ『クラフト・テレビジョン・シアター』のエピソード「灼熱の孤島」(1958年)では、アメリカ兵と無人島にたった2人で睨み合う日本兵を演じて高い評価を受けた。
青木鶴子との結婚
グレンギャリ城での生活
ハリウッドのスターとして絶頂期にいた雪洲夫妻は、1917年にはハリウッドの一角に、「グレンギャリ城(またはアーガイル城)」と呼ばれる大きな邸宅を購入。もともと雪洲は自分で豪邸を建設するつもりだったが、日本人の土地所有を禁じる外国人土地法に阻まれ、やむを得ず売りに出されていたこの邸宅を購入した。
グレンギャリ城はスコットランド風の城のような4階建ての石造りの建物で、32室もの部屋があった。正面玄関は道路から前庭の10段ほどの階段を登ったところにあり、左右には大理石の雌雄のライオン像があった。内装は古い時代の宮殿風で、東洋の壺やペルシャ絨毯、イタリアのアンティーク家具など、世界中の調度品や古美術品が置かれた。グレンギャリ城の豪壮さは、当時のハリウッドのスターの豪邸がかすんでしまうほどで、観光バスがわざわざ邸宅の前で停車するほどの名所になったという。
雪洲夫妻は7人の召使いを雇い、ピアース・アローやキャデラックなど4台の車を所有した。運転手は後に写真家して知られる宮武東洋が務めた。
雪洲はロサンゼルス市長などの名士をグレンギャリ城に招き、数百人が入れる大広間で、少なくとも週に1度は盛大なパーティーを開いた。雪洲夫妻の豪奢な暮らしぶりは、当時のハリウッドのスターの中でも群を抜いており、アメリカの白人の間でも評判になるほどだった。夫妻の私生活はたびたび映画雑誌などで報じられ、まさに一挙手一投足が注目を浴びるようなスター夫婦となった。
しかし、雪洲がグレンギャリ城を購入し、豪華なパーティーを開いたのは、当時のアメリカ社会における日本人の立場を反映したものだった。排日ムードが高まっていたアメリカでは、日本人が野蛮で生活程度が低く、社交性も欠けている民族だと認識されていた。こうした背景があり、雪洲は
「まわりにいるアメリカ人たちに、日本人もアメリカ人と同じ水準の贅沢な生活をするんだぞ、と見せてやりたかった」
ため、豪華な生活をしたと主張している。
実際にグレンギャリ城はアメリカに住む日本人の誇りになり、それまでいわれのない差別を受けて肩身の狭い思いをしていた日系人たちは、雪洲の豪華な生活ぶりをねたむより、むしろグレンギャリ城を見て大いに勇気づけられ、雪洲の心意気をわがものとして、道の真ん中を歩くことができるようになったと伝えられている。
グレンギャリ城には、チャールズ・チャップリンやルドルフ・ヴァレンティノといったスターもよく訪れていた。チャップリンは朝、撮影所へ向かう途中にグレンギャリ城に気軽に立ち寄り、コーヒーを飲みにきたという。
ヴァレンティノはグレンギャリ城に遊びに来て、雪洲にダンス、鶴子にイタリア料理を教えた。ほかにも多くの映画関係者や各種分野の著名人たちが出入りし、日本領事館もグレンギャリ城の応接間を迎賓館がわりに使っていた。
雪洲夫妻はハリウッドを離れる1922年頃までグレンギャリ城で暮らし、ヨーロッパに活動拠点を移したあとの1923年11月に邸宅を売却した。その3年後にグレンギャリ城はユダヤ人に買い取られ、ユダヤ教の寺院の教育本部になったが、のちにハリウッド・フリーウェイの建設に伴い取り壊された。
人柄
雪洲は明治男の心意気や、当時の日本男児のイメージを代表するような人物であり、終生自分のキャラクターを武人に近づけようと努力していた。後妻の黙子によると、雪洲はとても優しい人で、自分を騙した人を怒ることさえしないような根っからの善人だったという。雪洲と接した人物の多くは、雪洲の印象を「威張っているような人」のようだと思っていたが、雪洲は長いアメリカ生活のせいもあり、お愛想を言うなどの日本的な社交ができず、白黒はっきりとものを言うような人物だったようだ。雪洲は図太い神経の持ち主で、何事にも物怖じしなかった。欧米で活動していても、外国人相手に臆することがなく、周囲の日本人が驚くほど堂々としていた。
優れた運動神経
雪洲は運動神経がよく、剣道やダンスを得意とするスポーツ万能な人物であり、アメリカ時代は自家用のセスナも操縦。1917年の『米国映画名優写真集』では趣味が水泳、乗馬、柔道と記されている。剣道は4段の腕前で、1921年にはハリウッドの学校で師範役を務めていた。
欧米の映画主演男優でスターになった最初のアジア系俳優
雪洲は日本初の国際的な映画スターと見なされている。雪洲はキャリアの最初の10年間で、アメリカとヨーロッパの映画で主演男優としてスターの地位を確立した最初のアジア系俳優となり、1920年代まで
「西洋の映画で名を知られている東洋人は雪洲ひとりだった」
と言われていた。日本映画専門家のジャスパー・シャープは、アジア系どころか非白人全体においても、雪洲が最初に国際的なスターの座を獲得した俳優であり、それゆえに「歴史的に非常に重要な俳優」であると述べている。
映画研究者の岡島尚志は、雪洲が
「世界の映画史上最大の日本人スターであるといっても過言ではない。また逆説的だが、アメリカ映画の最初のスターの1人は日本人だったという言い方もできる」
と述べている。
1910年代のアメリカでは、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、ウィリアム・S・ハートと匹敵する知名度と大きな人気を獲得していた。当時の映画ファンの間では「悲劇のハヤカワ、喜劇のチャップリン、西部劇のハート」が合言葉となり、1917年の『デトロイト・ジャーナル(英語版)』紙の上映広告では、雪洲の主演作がチャップリンやハートの作品と並べて「マンモス級三本立て」と宣伝された。
雪洲の永続的なレガシーは、とくにアジア系アメリカ人コミュニティにとって大きなものである。しかし、アメリカ映画史研究において、雪洲はほとんど無視されてきた。2010年にメディア専門家のカーラ・レイ・フラーは、
「アジア系アメリカ人として先例となる早川のハリウッドでのキャリアで注目すべきことは、彼が映画史やスターの研究で事実上無視されているということです。さらに、早川が自身の映画会社を設立して経営したという稀なレベルの成功に達した事実は、ハリウッドの歴史の物語における早川に関する記述の省略をさらにひどいものにした。」
と主張している。
数多いアメリカ映画史研究書に雪洲の名前はほとんど登場せず、雪洲だけに焦点を当てた研究書や論文は存在しなかったが、2007年に雪洲の映画のキャリアに関する最初の本格的な研究書『Sessue Hayakawa: Silent Cinema and Transnational Stardom』が唯一、刊行されている。
感想
この様に驚くような輝かしい経歴を持つ日本人俳優で、日本人が誇りを持って語り継いでいってもおかしくない存在にも関わらず、全く映画史から抹殺されてしまっていることにまず驚嘆した。
今ならハリウッドで活躍する日本人俳優は真田広之をはじめ数人いるが、これほどまでの熱気を持たれて人気があるわけではないし、特別扱いをされているという印象もない。
この早川雪洲は日米の戦争という不幸な時代背景により、演技とは関係ないところで不当な批判をされてハリウッドを去る事になったが、時代があの様なものでなければもっともっと日本人として活躍し、一流スターの地位をハリウッドで更に築いていっていたかもしれないと想像すると何とも悔しく残念な気持ちになる。
こんな豪快でハンサムな日本男児が戦前のアメリカではトップスターになり人気を博していた史実を、今やハリウッド映画というだけで拝むように見る日本人は心の片隅に覚えておいて欲しいなと願いながら今回はここで筆を置く。
【今回は『世界一のハンサムは誰だ⁉️』について語っていきました。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
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