”アメリカ”とは一体、何なのか: 知られていない語源

アメリカ全般
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意外に知られていない「アメリカ」の語源

アメリカ合衆国(United States of Americaの)ことを、「アメリカ、アメリカ」と世界中の人は略して呼ぶ。

しかし、その中でどれだけの人が「アメリカ」の意味を考えたことがあるだろうか。

Americaとは一体、何なのだろうか。

今日はそんな基本的なことに立ち返ったことを書いてみたい。

新大陸を発見したのは「コロンブス」であると日本では義務教育で学習する。(それはアメリカでも同じ)そして誰もが知っている事実だ。

しかし、コロンブス以外の探検者のことはほとんど触れられない。

実際には他にも有名な探検者は存在していた。

その中でヨーロッパでは特に有名なだったのがアメリゴ・ヴェスプッチだ。

「アメリカ」という言葉が世界で初めて使われたのは、1507年にこのアメリゴ・ヴェスプッチという男がした探検をもとに新しい世界地図が作成された時だったのだ。

ヴェスプッチとは何者?

アメリゴ・ヴェスプッチはイタリア生まれの商人であり、15世紀後半にスペインに代わって新大陸への航海に参加した探検家だ。

その頃、現在の北アメリカ大陸にはバイキングが1000年前に入植し、コロンブスもカリブ海や中米の島々を発見していた。(この「発見」という言葉は物議をかもしていることはご存知の通り。)

ヴェスプッチの航海に関する初期の記録は、瞬く間にヨーロッパ中に広まった。

豆知識しかし、現在では贋作とされているために、ヴェスプッチは「嘘つき」という意味で使われるのはそれ由縁だ。

1507年、ドイツの地図製作者は彼の手紙を手がかりに新しい地図を作り、現在、南米大陸と呼ばれている地域をヴェスプッチにちなんで「南アメリカ」と名付けたが、この時が初めて「アメリカ」という言葉が活字になった時だった。

生い立ち

少年時代のヴェスプッチは、叔父のジョルジョ・アントニオから教育を施された。1479年、彼はイタリアの名家メディチ家からフランス王へのスポークスマンとしての派遣を受けた。

帰国後、ヴェスプッチはロレンツォとジョヴァンニ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの「銀行」に入り、雇い主の信頼を得ることになった。

1491年末、彼らの代理人であるジャンノット・ベラルディは、部分的に船の艤装に従事していた。このベラルディが援助したコロンブスが最初の遠征から戻った時に、ヴェスプッチもおそらく同席していたと考えられている。

その後、ヴェスプッチはベラルディとともに、コロンブスの第二回目の探検のための船、そして第三回目の探検のための船の準備に協力することになった。

1495年末か1496年初めにベラルディが亡くなると、ヴェスプッチはセビリア代理店の支配人となった。

ヴェスプッチの航海記録

ヴェスプッチ自身の航海は、1497年から1504年の間に行われ、それに関しては2つの文書が現存している。

一つ目の文書は、1504年9月4日、ポルトガルのリスボンからゴンファロニエ(中世イタリア共和国の統治者)であるピエロ・ソデリーニに宛てたヴェスプッチ名義のイタリア語の手紙だ(1505年にフィレンツェで印刷)。また、この手紙のラテン語版は「四つのアメリカ航海」「新世界」あるいは「新世界の叙述」という題で印刷されている。

二つ目の文書は、メディチ家宛の3通の私信からなっている。一つ目の文書では、ヴェスプッチの4回の航海が言及されているが、2つ目の文書では2回のみであることから、私信からなる二つ目の文書が真正となり、検証された航海は4回でなく2回に減らされた。

1499年5月から1500年6月にかけて、スペインから派遣されたアロンソ・デ・オヘダの指揮する4隻の遠征船の航海士としてヴェスプッチが行った航海は、確実に本物であるとされている。

1499-1500年の航海では、ヴェスプッチは現在のガイアナ沿岸に到達した後、南下してアマゾン川の河口を発見し、セント・オーガスティン岬まで行ったとされる。

ヴェスプッチは、地理学者プトレマイオスがカッティガラの市場があると考えたアジアの極東半島の海岸に沿って航海したと考え、この半島の先端をカッティガラ岬と名づけた。船はこの地点を過ぎると南アジアの海に出ると考えた。

ポルトガルに仕える

彼はスペインに戻るとすぐに、インド洋、ベンガル湾、セイロン島(現在のスリランカ)に到達することを目的とした新たな探検隊を準備しようとしたが、スペイン政府は彼の提案を歓迎しなかったので、1500年末にポルトガルに仕えることになった。

1501年5月13日、リスボンを出発したヴェスプッチは、ポルトガルの援助を受けて2回目の探検を行った。ヴェルデ岬に立ち寄った後、南西に進み、セントオーガスティン岬に向かうブラジル沿岸に到達した。

その後の航海については議論があるが、ヴェスプッチはさらに南下を続け、リオデジャネイロ湾を発見し(1502年1月)、リオデラプラタ川まで航行した可能性があり、この河口を発見した最初のヨーロッパ人となった。

再びスペインに呼び出される

1505年初め、彼はスペインの宮廷に呼び出され、経験豊富な人物としてインディアスの商業家で働くことになった。そして、1508には航海士に任命され、水先案内人や船長の航海免許の審査など、非常に責任の重い仕事を任された。

他にも船長が出さなければならないすべてのデータを解釈し、調整しながら、新発見の土地とそこへの航路の公式地図(王室測量用)を作成するという重職についた。スペイン国籍を取得していたヴェスプッチは、死ぬまでこの職についていたという。

アメリゴの名をとって、、

1507年、人文学者のマルティン・ヴァルトゼミュラーは、ロレーヌ地方のサン・ディエで『アメリゴの四つの航海』を復刻した。

それに先立つ『コスモグラフィー入門』という自作のパンフレットで、新発見の世界を「ab Americo Inventore…quasi Americi terram sive Americam」(「発見者のアメリゴから取って、アメリカスの地かアメリカのような」)

と名付けることを提案する。

この提案は、ヴァルトゼーミュラーの大きな星座早見盤にも反映され、その中で初めてアメリカという名前が登場するが、それは南アメリカにのみに適用されていた。

そしてこの提案がその後、北アメリカ大陸にも適用されるようになった。地図の上部の旧世界を構成する半球の部分にはプトレマイオスの絵が、そして新世界を構成する半球の部分にはヴェスプッチの絵が描かれている。

批評が分かれるアメリゴの功績

先にも書いた様に、4回の航海のうち2回は嘘だったと証明されたヴェスプッチは、「嘘つき」の代名詞になってしまった。学者の中には他人の功績を奪った人物であると厳しく表する人もいる。

しかし、ヴェスプッチや彼の代理人が欺瞞的な主張をしていたとしても、1501-02年の大西洋探検のパイオニア的航海は、彼自身、そして多くの学者たちが、

新しく発見された土地はアジアの一部ではなく「新世界」であると確信した 

という点では、新世界の地理的発見の歴史においては重要な功績を残したことは間違いない。

アメリカの名前の起源となったアメリゴ・ヴェスプッチ。

あまり知られていない影なる人物であるが、記憶の片隅にとどめておいて欲しい。

【今回は『”アメリカ”とは一体、何なのか :知られていない語源』について語っていきました。

最後まで読んで下さりありがとうございました。

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