もくじ
日本に何故、カトリック教弾圧が起こったのか
外国に指摘されて、日本人が大抵反論できず反省だけしてしまうことの一つが島原の乱などに代表されるキリスト教の弾圧だ。
学校で習うことだけを元にすれば日本とはいかに宗教に許容がなかったのかと曲解してしまう。
しかし少し考えてみれば、八百万の神々を敬い、インドより伝わった仏教も上手く取り入れ日本的仏教に昇華させることが出来る程の日本が、一神教のキリスト教に動揺するはずがない。
では何故、彼らは弾圧されたのか?
その裏の邪悪な権力を見た為に国益に反すると判断したからに他ならない。
あの当時、カトリック教会はカトリック大名達と連帯して領民の日本人を奴隷として外国に売り飛ばしていた。また日本を征服する意図をもって城の見取り図なども極秘で本国に送っていることも明らかになった。
世界の殆どの地域が西欧によって植民地にされていたことから見ても日本も同じ様に狙われているのは察しが容易についた。
またカトリックを禁じて、プロテスタントの国とは貿易を続けていたことからも分かる。
しかし日本の教科書では「キリスト教」と一括りにして教えて、キリスト教を一方的に弾圧して国を閉じた江戸幕府を批判するので全く訳が分からなくなる。
西欧は素晴らしいという妄想
世界に例を見ない長い間、鎖国を守った江戸時代を批判しているのは、外国文化が素晴らしいと妄想しているか、日本潰しを夢見る左翼活動家達だ。
戦後、日本人は「外国こそ文明が高く、野蛮な日本人に民主主義を教え、文明的な国になるように導いてもらった」と一貫して洗脳を受けてきている。
しかし、我々が享受する日本の素晴らしさの多くは鎖国によって守られ、より培われていったものばかりだ。
キリスト教徒でないものは劣等民になる
文明的でないという価値観はキリスト教を禁じる野蛮人国という欧米人による一方的な偏見によるものが大きかった。
彼らにとってはキリスト教を信じない者は神に選ばれていない者となり、自動的に劣等民になってしまうからだ。
ここは日本人には分かりにくい感覚だが、本当にそうなのだ。
キリスト教を布教する人達は自分達が良いことをしていると思っているし、人々を救っていると思っている。
私も何度も誘いを受けたことがある。
一番、衝撃的だったのは大学時代にバスで一人旅をしていた時に横に座った男性だった。
始めは普通に話していたのだが、おもむろにキリスト教の絵本のようなものを見せてきて、キリスト教の素晴らしさを説こうとしてきた。話だけは一応、フンフンと聞くことにした。
その人が降車する駅に近づいた時に
「さあ、君も改心したかな?」
と聞いてきたので即座に「NO」と答えた。
すると、その男性が席を立ちながら私に放った一言。。。
「地獄に堕ちろ。。」
「まあ、こんなもん何だな」と私も妙に納得して怒る気にもならなかった。
心地よい日本の宗教観と一神教の宗教観の大きな違い
日本の宗教観がふわっとした心地良いものなのも宗教に拘らない原因なのかもしれない。
しかし普段は宗教を強制されず、そう意識もせずに暮らしていける日本人でも神社や寺の文化遺産破壊は心底腹が立つし、メディアがもっと取り上げればその数はもっと増えるだろう。
この様な文化遺産破壊の事件を見た時に、突如として火がついた心の怒りに、無意識だった心の糧に気づいた人も多くいるはずだ。
日本の宗教観と他国のそれは根本的にまるで違う。絶対に越えられない壁がある。
日本人が八百万の神の精神でどの宗教も認める事ができても、一神教のあちらは絶対にできない。同じように許容し合えると思うから危ない。他宗教の人と仲良くなれても、もう一歩踏み込んだ宗教の話はタブーなのはそのせいだ。
一神教がどうのということではなくて、単純に日本人の様に多様な物を受け入れる民族と一神教との共生って本当に一筋縄にはいかないと強く感じる。
なぜなら、あちらは絶対に譲れないわけだから、譲歩するのは日本人になることが必至になるからだ。
移民問題が単純な人道問題と一緒に語ることができないのはそういう側面も大いにある。
大手メディアのニュースに流される前によく考えて欲しい。