キリスト教の労働観と日本人の労働観の決定的違いとは

日本と世界の違い:宗教や文化
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わたしは可哀そうな人ではない

アメリカはキリスト教が根強いので、そうでない私がキリストの恵みが受けられない可哀想な人のような目で見られることがたまにある。

しかし、私は自分が可哀想だなんて思ったことがない。

日本の神々はもっと広く善も悪も自然も動物も全てを包括して我々のそばにどこにでもいるのだから。

宗教の自由は多いに歓迎しているから

わたし
わたし

「どうぞそちらも上から目線でこちらの宗教観を縛ろうとしないでね」

と言いたい。

八百万の神々と生きる

私は一つの宗教に属していない。

母は仏教徒、子供の時は神社で隠れんぼ、通った学校の一つはプロテスタント系イスラムの友人もいるし、カトリックの親戚もいる。神も仏も信じない親戚もいる。

でも別にそれでいいし、困ったこともない。

私は誰の信仰の否定もしない。

八百万の神々の文化で、私は生まれ、育ち、その中に生きている。

宗教と労働観

ところで、宗教というのは労働感の違いを生むことが大いにある。

欧米の労働観

日本以外の国では(特に一神教の宗教色が強い国)労働は苦役と理解されている。

戦後は欧米化が進んで、日本も同じようになってきているので気づきにくいかもしれないが、欧米の人は週末や休日を異常なほど喜び、パーティーやらお祝いに勤しむ。

まるで日常の仕事とプライベートは全く切り離された人生のように。

これを日本では「プライベートとビジネスをしっかり分けていて素晴らしい」と肯定的に捉えられている。

しかし、裏を返せばやりたくないことをやらされて(苦役)それから解放されるのが休みというのが根底にあるのだ。

またキリスト教では天国におられる神に奉仕する意味で行うのが仕事(苦役)であり、死後に天国に行きたいという願いが根底にある。

だからひと様の為にしていることも、そのひと様の為にしているというよりは「神」のために奉仕している。

日本の労働観

一方、日本では休みというものが昔は、そうはっきり区別されていなかった。

仕事は苦役ではなく、生きるためにすることであり、連続的な生のつながり

働くことは当たり前で、その連続性の中で疲れたら休むという感じがよりしっくりくるだろうと思う。

八百万の神々のいる日本では神々も働くのだ。

これは世界と比べて本当に珍しい宗教観だと思う。

働くことが天国に行くために通過しなければならない苦役なのではない。また、ただ金のためだけに労働するのではない。

働くことそのもの中に生き甲斐を感じ、自分の仕事がひと様の役に立てた時一番至福の喜びを感じる。それが日本人の長い歴史の中で培われてきた労働観だった。

戦後、この貴重な精神も崩されてしまった。

本当にブラック企業が問題なのか

今はブラック企業という言葉が闊歩して、あまり働かないことが良いことのように、また賢いことのようにメディアが煽っている。

メディアがそう煽るということは、きっと日本人に一生懸命に働いてもらっては困ることがあるのか?と勘ぐってしまう。

確かにアメリカと違って、自然資源も少なく、農業が基幹産業になり得ない日本にとっては、知的資源が一番の強みだ。

国民の質が日本を支えてきたと言える。

確かにメディアが取り上げるような“”働きすぎで自分の中のバランスが取れなくなり自殺をしたとか精神が崩壊した“”という人達は、明らかにそこに至るまでに出来たことがあっただろうし、自分だけでどうにもならない場合に助けが得られらかったことも問題だろう。

しかし、働きすぎという観点だけで見れば、戦前や戦後すぐの復興時期の先人の労働時間やその質の大変さと今の仕事と比べたら、どちらがブラックであるかは一目瞭然だ。

先人の働きは我々から見たら到底、真似ができないだろうと思う程、異常な働きぶりだった。

だから、問題はきっとそこではないのだと思う。

労働観を欧米風に変えられたことに加え、企業の経営自体も改革されたことで、日本本来の終身雇用制が撤廃されたり、非正規雇用採用ばかりになり賃金低下したりという所に本来の問題があるのだろう。

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