日本人の宗教心は本当に薄いのか

愛国教育
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日本人は宗教心が薄い

とよく言われる。

日本人は宗教心が薄いのか

私もそのように言われて何の疑いもなく育ってきた。

皆さんは

どんな神を信じていますか

と聞かれたら、すぐに答えられるだろうか

昔の私は答えられなった。

今から思えば顔から火が出るくらい恥ずかしくも

わたし

日本人はあまり信心深くない、無神論者のような感じです。

と答えていた。

明治時代に確立された日本人観

この様な質問は現代だけでなく、明治時代からあった。

鎖国時代、海外の人との接触が限定された時代を超え、特に明治に入って海外に留学するようになった日本の知識人たちはキリスト教が根強い、欧米の人達に

日本人を統一する宗教は何か

と聞かれて答えに困ったという。

宗教もないのならどうやって道徳観念を民に教えることができるのだ

馬鹿にされたという。

そのことで日本人の道徳思想の根源を見つめて新渡戸稲造の「武士道」や内村鑑三の「代表的日本人」が書かれた。

つまり、日本人はある一つの宗教という形でなく、武士道という生き方のモデルがあり、それが長らく日本人の道徳を育んできたというのが彼らの思想の結論だった。

日本の根幹である神道は外国でも宗教と区分されていない。

しかし「ならば何?」と国外と比較する時に、西欧ではあらゆる土着の風習がキリスト教により淘汰されており比べる物がほぼ皆無だった。

開国時期に西欧におけるキリスト教の如く国を一つに纏める物は日本で何かと探した時に先祖は

我々には皇室がある

と気付いたのだろう。

アイデンティティクライシスに陥った過去のわたし

私もアメリカに来てから「宗教は何か?」と聞かれることが多々あった。答えに困ったことが何度もある。

祖母は仏教徒で家に仏壇があり、毎月家を訪問してくるお坊さんの念仏をその後ろで正座してじっと聞いていた。般若心経は幼稚園の頃にはわけもわからず暗唱できていた。

しかし、お正月には近くの神社にいって新年の祈願をする。大学では聖書を読み、キリスト教も学んだ。

日本ではあまり聞かれない質問に一種の宗教アイデンティクライシスのような気持ちになったことも幾度もある。

しかし、それから長い時を経て、色々と経験や思想を積んでいくにつれ、日本人ほど欧米人のいう所の宗教心というものが無意識生活の中思想に刻み込まれている民族もそういないのではないかと思うようになった。

世界でより深く神と共に生きる日本人

日本は仏教を取り入れたと言え、やはり神道が基本で花開いた。三千草木が神。生きとし生ける物すべてが神であるという神道的考えが脈々と日本人に繋がれてやってきた。

日本人が清潔好きだと言われるのも、家やトイレをピカピカに磨くのもお客様が来るからするのではなく、そこには神が宿るからだ。あまり意識していない人の方が多いかもしれない。

しかし確かに私たちが自分以外の事象を見渡す時に、それが虫であろうが、名もなき花であろうが、愛でる心というのがある。

当たり前だと思うかもしれないが、これは宗教心にも深く繋がっている。

日本人が外に出ると必ず立ちはだかる宗教の壁

今では私は胸をはって日本人の宗教観を語ることができる。

キリスト教とは全く異なる世界観で大和民族は歴史を紡いできた。そこには一つのGODを絶対神としてあがめ、その完璧なGODの姿に近づこうとするのではく、

人間には日本の神々がそうであるように、一人一人に役割があり、一人一人のに意味がある。失敗をしながらも精進怠らないように努力を続ける。

という日本人の勤勉さが凝縮された美しい宗教観だ。

そしてそれが庶民の文化というレベルにまで広く、深く浸透しているのが日本だ。

このような認識は国を大事に思う心にも繋がっていく。宗教という形でなくても、日本の国造りの神話などを子供たちに学校でも家庭でも教えることはとても大切なことだと思う。

その文化全体の姿を「宗教」という名のくくりに入れるかどうかはまた議論が分かれる所であるが、日本人が無神論者であるというレッテルだけは「NO」と今でははっきり言える。

日本は神々が宿る島だ。

コメント

  1. 神道について、この一年半ほどアマゾンのKindleでベストセラーとなっている「アマテラスの暗号」(Amaterasu No Angou)という歴史ミステリー小説で衝撃の事実が暴かれていました。日本版「ダ・ヴィンチ・コード」といったところでしょうが、私も読みましたが、はっきりいって面白さは「ダ・ヴィンチ・コード」を凌いでいました。単行本もあり、映画化が検討されているようです。

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