いつからだろうか。
私が学生の頃は、国際社会で順応しながら生きていくという意味で使う時は
インターナショナルという言葉がどこでも使われていた。
【インターナショナルな大人になるために英語を勉強しよう】
みたいな雰囲気だったように記憶している。
それがいつからかインターナショナルという言葉はほぼ死語のようになってしまい、今やそれに取って変わるようにグローバルという言葉が使われるようになっている。
しかし、このインターナショナルとグローバルという言葉は一見、似ているように見えてもまるで反対の作用をもたらすものだと言っても過言でない。
私の予想で行けば、グローバリズムがこれからも今のような速度で、もしくはもっと速い速度で進んでいくと、いずれは国ごとの多様性をことごとく破壊していくことになり、力やお金のある本当にごく一部の人達がピラミッドの頂点に君臨し、その他大勢の様々な民族は貧困に苦しみながら住む地球を支配するというまさに世界的な独裁体制のようなものになっていくだろう。
インターナショナルというのは、それぞれの国のナショナリズムを大事にした上での国際協力であったり、国際親善であったりするものだった。
国ごとの文化、歴史、言葉、宗教観などの独自性を守ったり、国民の生活や国益を守った上で、他国とも協力できるところはしていくというのが国際的なものであるという認識だったはずだ。
それがいつしか、メディアでは「グローバルに対応する」やら、教育界では「グローバル教育を目指す」という謳い文句が宣伝に使われるようになってからは、インターナショナルという言葉を誰も使わなくなってしまった。
そしてインターナショナルと同じ意味で今やグローバルという言葉を代用している人が多いように感じる。
しかし、グローバリズムというのは、全く異なるものだ。ワンワールドという言葉が示すように、世界統一政府を作るのが最終目標である権力者達がいる。
こういうことを言うとすぐにオカルトだの陰謀論だのと茶化す人が今でもいることに逆に私は驚いている。
「もう彼らは隠さなくなったし、既にこれだけ見えているのにまだ気づけてないの??」
世界を一つにまとめるには、人、もの、金の流動性を高めることが不可欠だ。
ものは貿易で、金は投資で簡単に動かせるようになった。そして、今激しく行われているのが最後の砦の「移民」だ。
実はこの流れに気づいた欧州の多くの国やオーストラリアなどは、移民に対しては壁を高くする方向に舵を切った。やはりここ数十年の混乱の加速で否応無く気づいた国民が多かったからだろう。
しかし、日本はどうだろうか。
現役総理自身がダボス会議で
「グレートリセット。新しい資本主義の形を目指す」
などとスピーチで公言する始末。
先のゴールデンウィーク中のイギリス訪問では、ロンドンシティへの投資家に向けて
「今、日本は買い時です。どんどん日本に投資してください」
と日本切り売り宣伝をしていた事もメディアは報じない。
アメリカも、売電爺のせいで、不法移民がどんどんと入ってきている状態に加え、ウクライナとロシアの件で更なるインフレ加速とガソリンの高騰で、中間層以下は悲鳴をあげている経済状態だ。
とはいえ、ここではコロナはもう終わった。マスクをする人を探す方が大変なくらいだ。
しかし、日本を見てみれば、マスクを外したいのに外せないというツイートが多いところを見ると、まだまだしている人が大多数であろうことは想像がつく。
そして今でも四回目の接種を勧めているのを見たら、呆れを通り越して、日本の政権には日本人の意思がそこにはないのだなと思わざるを得ない。
ただのグロバの操り人形に見えてくる。
この日本の状態を見ていたら、グローバリストが世界の中でも一番扱いやすいと笑っているのが、今の日本なのではなかろうかと思う。
大東亜戦争の時は、黄色い猿と言われ下に見られていたとはいえ、極東に位置する島国の小さいアジア人にしてはかなり強い軍事力と強靭な侍精神があるということで、畏れられ一目置かれている部分はあった。
しかし今はどうだろう。
軍事力も核もない。何を言っても反発しない。買えと言われれば買う。売れと言われれば売る。
魂までも売れと言われたら、簡単に売るのでは?という人達ばかりだ。
もうすぐ参院選ということで、SNSでも政治的な発言をする人が増えてきたが、確固たる自分の信念を持って投票に臨むごく少数の人達を覗いて、投票に行くとしてもこの辺りの【世界の危機の渦の中になる日本の危機】に気づけていない人達が投票するのは、当たり障りのない議員なのだろうと想像すると暗たんたる気持ちになるのは私だけはないだろう。
世界に冠たる一本の長い歴史を持つ日本。
どこよりも深い文化文明と言語を持つ日本。
どこよりも思慮深く高い民度を保つ国民が住む日本。
外から見ていたら本当に愛おしい国だ。その国がよりにもよって日本人の手で壊され、切り売りされていく姿を見るのは、自分の身を切られる如く痛みを伴う。